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家族と親子、近くて遠いその表現

その辺の家族見てても特に何と思うことはありません。電車の中、ショッピングモール、催し物と、目にする機会はいくらでもありますが、本当に何も感じるところがありません。何してようが目に入っているだけで、いいとも悪いとも思いません。それはもはやそこにある現象で、景色の一部でしかないのです。森であったり街であったり、極端に言えば個として存在しない背景に同じ。

ただ、母親と息子の組み合わせだけは引っかからずにいられないことが多々あります。どの母子でもというわけではありませんが、形容しがたい共通点を持った母子において何か気持ちが動いてしまうんですよね。

最近も東京モーターショー行った時、お腹空いたなあなんて露店でケバブ買って食べてたら隣に親子が座りました。息子が行きたいって言ったのかは知りませんけど、まあとにかく親子で一緒にモーターショー来て昼ごはんを食べてたわけです。なんてことない景色のはずが、どうにも昔の自分をイメージしてしまうんです。一人っ子だし、父親と比べたら小さい頃はもちろん母親と出かけることが多かったのでこんなこともあったんだろうなーって。

とは言え、じゃあなんでその辺の家族で自分ちの家族がスケールしてこないのか。

通常でいけば三人家族見ても何か反応しそうなところがそうじゃない。母親に何か引け目があるがゆえなのかと言うと特に思い当たる節もない。親不孝とかそんなのは別にして。いや、逆に言うと親不孝では記述しきれない何かといった方が本質に迫ってる気もしなくはないです。

何より、親と子がどこまでいっても一対一で、家族というものがその延長にこない気がしていました。でも、気づけばぼくは父親を亡くしてから、自分にとっての家族が母親だけになったので、ある意味親子と家族が同時に成り立った状態にあります。

条件付きで発動するアビリティみたいなもんですかね

それも交わることがない平行線だったがゆえ、滑らかに交差することなくデルタ関数的な振る舞いを見せる、と。ほんとは飛んでるのに解釈が追いつかずずれた結果、認識のギャップが生まれる。それがこのなんとも言えない気持ちの実態なんでしょうね。
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