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命を大事に

このタイトルから「それはパンを尻にはさんで右手の指を鼻の穴に入れて左手でボクシングするというあれか?」と思った人は、多分おれと話が合う。

それはさておき、子どもたちに命の大切さを学ばせるのはまあ大人の役割と言えばそうだ。昨日、東北の震災を受けてそういうのを伝えてる的な話をニュースで見た。けれど、命のような物心がつく前から存在するものに対し、学んで得るものがあるかというと何だか足りなさを感じる。

例えば、関西の小学校の修学旅行と言えば広島(?)とくるわけで、それはやっぱり戦争を意識しての事で、観光もそこそこにドームへ行ったり原爆を受けた人の件を聞く事になる。貴重な話だからそれはね、いいと思う。ただ、記憶力のまあまあいいおれですらあの時何を聞いたかサッパリ記憶に無い。当時の状況が夕食後のお眠だったからかもしれない。途中薬を飲まないと辛いって話だけは覚えているのだけれど、何を感じたとか何を思ったとか、旅行後の授業で感想文を書いた瞬間、まるでデジタル放送の録画でムーブをしたかの如く脳から消えている。

とはいえ、感想文に何を書いたか位は想像出来る。戦争はいけない、原爆は使ってはいけない、概ねそういうところを目一杯広げた内容だろう。11,2才の頭では気の利いた事を期待すると言うより、共通認識というか常識というかそういうところを感想文にするのが妥当。小学校で受けた教育は学問の部分を除けば奇天烈な中身ばかりだから本質的な何かを期待はしない。だいたい大学出てすぐ教師だけやってきた人間が、込み入った教育にどう貢献出来るのか長年の疑問だ。

で、命を粗末にする奴なんて大嫌いだ的な台詞がジブリにあったけれど、だいたい不本意に無くしてしまうのもまた命である。いくら気を付けていたって自然災害や対外的なものを予見するのは不可能に近い。不摂生と癌に相関があって、家系的に男子がその因子を持っていても、どのタイミングで来るかは定まっていないように、これもまた仕方ない事実。精一杯生きようとする事で本当に生き残れるかって言うと恐らくそうじゃないし、地理的な先天性だって大いに関係している。大事に大事にってどうしたら正解なんだろうね。

おれは小さい頃から身近に人が死ぬのを見てて、老衰っていうのをほとんど知らない。限りなくそれに近いのはあったのかもしれないけど、実は平穏に死ぬと言うのは極稀なケースかと思っている。笑って死にたいとか、一片の悔い無しと言ってとか、光を…的なことは、稀どころか世界に一つだけのケースである。100%の致死率に対し、生物の基本設計が命を粗末にするように出来ているとは考えにくい。その上、体に付帯する心が、それ自身で本丸の事を科学として記述しても、死のオフセットに関してどれほどのものとなるのか想像もできない。

命を大事に、というより前に遺伝子的に大事にしている、そう思う。人がわざわざかのことを口にするのは「今それに気付いた」くらいの意味しか無いのだ。誰でもそうだからなまじ気持ちよく入ってくるんだろう。ただ、おれはそれが違和感で違和感で、それはもう違和感で。スーパー違和感で。え?スーパーカミオヵ…んで?
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