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雑記

今日はずっと曇っていた。正確には時々雨が降っていたのだけど、概ね曇っていた。

昼過ぎたあたりにDVD-Rを買いに行こうと思って外へ出たものの、夏なら気にしないくらいの雨が降ってきたので断念した。ウールのコートを着ていたし、久々に自転車で出掛けようとしていたものだから、まさに出鼻をくじかれた感じだ。

でもまあ、明日どうせ車で出る用があるしそのついででもいいやと、出る前に考えたりもしていた。なのに何でわざわざ暗い空の下に繰り出そうとしたかって、そんなもんは気分的なものでしかない。晴れてたって出たくない日もあれば、雨でも出たくなる日がある。天気と感情の間に因果なんてモノは無い訳で、あるのは知識と経験から来る頼りない相関ぐらい。

技術の進歩は雨読といわれるような籠もりを打ち破ったとはいえ、それはそれで妙に虚しい。本当なら無理しなくて済んだ事まで出来てしまうのは現代のジレンマとでもいうのか。確かに、ほとんどしなくていい事しかする事が無くなった近代においては、暇でいる事に罪悪感すら感じているように思う。

そもそも産業革命はその暇を作るためのもので、その暇は次代のイノベーションを生む機会であるべき。もしくは好きな本読んだり、映画見たり、ゲームしたり、寝てもなんでもいい。それなのになぜ暇である事に不安になるのか。ひとえに人間の性と言えばその通りだろう。昔は暇で死んだように、暇を埋める何かがなかったが、今は違う。しかし、学習しない種類の人間はいつまでも暇と言う病気におびえている。

戦争だって極端な話、暇が過ぎて起こるものだ。誰が日々の生活に追われてまであんなコストの高い事業をやるか。まあ、イノベーションという点では暇を有効活用しているが、賢い一つのやり方とは考えにくい。

時々、釣りに行って魚を釣って、それを焼いて食べてると、県のほとんどが山に囲まれているとは言え、現代の暮らしに染まっている事を実感する。いろんな手間を分業しマーケットで評価するなんてのはワイルドライフに無い。差を意識する瞬間イノベーションと歴史を理解するわけだ。

初めからそのシステムの中で育つ事が当たり前で、何の疑いも無く生きていると正直なところろくな人間にならない。ひな型の劣化コピーが量産されて交換可能なB級ばかり生まれる。意味の無い人がいなくて皆それぞれ役割が〜というけれど、ポジティブに捉えるだけが正解じゃないと思う。役なんて小学校の劇ですらあらかじめ主役と端役に分かれる。劇中でひっくり返るときもあればそうじゃないときもある。そんなもん。

生きると言う事を人間の言語で壮大に記述してきた所為でいろいろややこしい事になってきてるけど、根底にあるものなんてそこまでのものじゃない。ただ果てるまでの暇。
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