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重力に引かれて融ける

世間では各所で異常気象だと、観測史上例を見ないと、そう伝える画面の向こう。地球にあふれる力を人間の力では制御出来ないと嘆いている。異常も観測史もあくまで人間の低俗な認知に過ぎない。

科学の進歩が続けば続くほど出来る事が増えた。しかし、それによって出来ない事がより明確になり、自然との距離は開いていくばかりである。

知れば知るほど知らなくなる



そうありながらも、知らないのもまた形而上へおく事で自己満足に浸れる。

未だに木も草も石も水も、何一つ生成する事は出来ていない。錬金術どころか有史以来何かを生んだ事などない。

文明という自然には築かれない世界で生きるなら、時に自然に呑まれようともその覚悟くらいは持っていておかしくない。堤防もアスファルトの道も家も車も人以外には無用の産物であるし。いざそれが壊されて人が何人不幸になっても、自分の身を切られた地球のことを思えば、何を今更と言える。

森羅万象は、美しい姿を見せるときも荒くれた姿を見せるときも、そこには良い悪いということはない。ただあるものがそこにある。

空がそこに、雨がそこに、地がそこに。

そういえば、奈良も南の方はなかなか降水量が多く、大台ケ原とか有名。その近くに、俺は行った事無いんだけど大峰山というのがあって、崖から身を乗り出す戯れを体験出来る。超自然的な力を扱う修験道の本場とでもいうところで、そこでは身を乗り出す時に親の言うこと聞くかとか聞かれて、聞くというまでずーと半身が崖から飛び出たままになる。しかし、そんな問いかけは昔からやっていたわけではないと思う。俺はたとえ落とされようとそんな誓には同意しない。なぜなら聞いて死ぬか聞かずにその場で落ちて死ぬかの差だからである。特に齢18以降は聞けば聞くほど駄目になることは明白。

本当に聞かなければいけないのは同じ親でもmother earthの声ではなかろうか。

空を仰がず、雨に濡れず、地面を踏まず、それでいて環境を語るっていうのも滑稽きわまりない。仰々しい木と粘土の檻の中で、議論する事で変えられた現実とは一体。

世間では選挙も終わり、液晶に映るのはあいつがどうだこいつはどうだと眠い事ばかり。鉄の匣で巣から巣へ移動を繰り返すこの種の生物は、他人について議論をする前に自分が人である事を野山へ行く事で再認識してきた方が良い。

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