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なぜ好きなことに帰結させるのか

車好きと一言で言っても、高級車が好きな人であったり色々あるわけです。僕なんかだといろんなフェーズを超えてここまできたところがあるのでどの段階でどういう気持ちで車を好きと言ってるかはよくわかってるつもりです。

昨今好きなことをやればいいという仕事の流れがあって、それは昨日までの職業人生やテクノロジーの進化から見たこれからのトレンドという意味で一定の評価があると思います。この辺を総じて何が言いたいかというと”食うための”というフェーズは時勢から言って過去のものとなったということです。また、そのスタンスだと逆に食うことすら、という状況になりかねない時代がそこまできています。

消費に限りがきて資本主義の限界と言いますが、資本主義とは消費だけに依存するものかというと微妙なわけです。もちろん消費がなくなることはありませんが、そのあり方は常に変化を伴う代謝の中にということになります。

ぼくをクルマ好きという言葉で表したとして、じゃあ5歳ごろから同じクルマ好きという言葉のうちにあったのかといえば全然違います。その頃は明確にこれが好きなんて訳ではなかったと思います。見た順にリンカーンコンチネンタルが好きとか、ジャガーxjが好きときて、次にキャンピングカーが好きになって、アウトドアに目覚めてハリアーが好きになり、ランクルに行ったり、かと思えばグランツーリスモやイニdの影響でスポーツが好きになったり、vip的な方に流れたり、今はクラシックやノスタルジーにはまったり。その間、テクノロジー面から法律面からマーケットシェア等、関わる領域も広げてきました。

誰に言われるでもなく、勝手にやるのが好きなことだと考えますが、もっと言えば他人の評価軸から離れ、ポーズや見栄で気分が良くなるということがない状態であります。

純粋に好きと言っているつもりでもその実は人の目を意識していたり、情報を浴びたそのノイズの中から自分の好きを見つけた気になっているだけかもしれません。そこは時間が経たないと見えない部分も含んでいます。

その時間を無駄にしないためのものが教育というか学校だった時代もありました。それがシステム化コンベア化し、本来から離れたものになってというところで次が始まるんでしょうね。官僚制度もそうでした。合わなくなれば辞めざるを得ない、そういうものです。

そこで動かす軸足を間違えるから制度残しで好き嫌いを変えてしまうんですね。ここで軸足を間違えないために、偉い人はなんて言葉にするか。好きなことをやれっていう訳です。見つかればいいですけどね。見つからなくてもどうでもいいです。人生をなんだと思ってるんでしょうね
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