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自分が入る隙間という表現

人間暇になるとろくなことを考えないというのは広く知られています。ただ、忙しすぎて心が亡くなるというのも一方ではよく問題になります。

日本では古来より空白の美というものがあり、絵にしろ空間にしろぎゅうぎゅうに満たしてしまうというのは憚られてきたように思います。こういった考え方をするときに疑問に感じるのが、果たしてそこには本当になにもないのかということです。

何もない、という状況を考えるのはなかなか難しく、さらに言えば論理的に「ない」ということは不可能だということです。まあその説明はめんどくさいので省きますが、とにかく空白はなにもないのではなく空白があるということです。
漫画なんか読んでると、
「おれが座る席は自分で空ける」
的な表現をたまに見るわけです。ミーハーなぼくはすぐに影響されてそういう発想にアグリーしちゃいます。しかし実際は上の図のように隣り合う玉同士入れ替わるだけだったりします。スライディングパズルと一緒ですね。初めから隙もなければ、それはただの移動です。

創る壊すといった作業も同様で、基本は変態なんですけど、スタートは創る方からしかできないと思っています。エネルギー伴うと厳密なゼロサムとまでは言えませんが、全体としては絵柄が変わる程度の変化です。

組織や共同体はその球の結合のスケールとともに、個々の変化は瑣末になります。確かに、どこまで乱せば変化したのかという点は主観になりますが、違いがわかるわからないの個人差と誤差のバランスと言っていい気もします。

言葉が先行すると事実認識のずれを補完するケースもありますからね、何を持って認識とするかというアンカーが大事になるわけです。まあぼく自身そのアンカーが底につかなくてずっと漂流してますけど
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