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時間軸の使い方

十月に入り、今年も残り〜という例年のトークテーマが聞こえてきます。ひと月が過ぎ、四月あたりでもう三分の一、六月で半分とまあ、なんとも忙しいわけです。

年単位でそれ。人生においては二十歳を過ぎ、ああもう三十で早い早いと、5060超えてなんとやら。歴史の年表でも株のチャートでもいいですが、右側を未来にとって測ることを今までしてきました。

ぼくは25くらいの時に、自分のライフサイクルみたいなものを星のめぐりと比較して遊んでいましたけど、とてもマネジメントなどはできないように感じた次第です。

いや、何を言ってるんだと

思うにです。N次元のグラフで観測したものから得られる結果を見てああだこうだ言ってもN+1次元では全然話が違って見えていて、これをまとめて観測対象を表現する言語的な限界というか。

例えば、時間が解決してくれるという、悩みでもなんでもいいんですけど。この因果においては時間を変数とした関数に処理を投げていると解釈します。食べ過ぎて動けないというのも、消化という関数に時間という変数が入ってると考えれば、同じようにスケールします。

しかし、この時間が平等に作用するかというのは別の軸の話ということがままあります。

啓発本の類には時間は平等に流れて、などと書かれていたりします。ところが上の例で言えば、消化にかかる時間は体の組成でも結構な差があります。同じだけ食べても同じようには進まない。これは平等ではありません。

タイムマネジメントとはその調整をすることに意義なりがある一方、想定できない確実な長さを割り振る難しさと対峙しないといけません。平たく言えば死ぬタイミングです。

ローンという発想も寿命のビッグデータと折り合いをつけた策と言えますし、保険で担保をするというなんともなシステムです。

時間はとかく優先されがちで、それゆえ距離を取れない現象なのでせう。ぼくはコンセンサスで大事と言われるものほど優先させてこなかった節があるので、もうだいぶ感覚ずれてきました。ただ、観測ってずれないとできない面もあるんですよね
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