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教育のアウトソースによる弊害

塾を始めとした習い事って、基本的にはどんなに努力しても親のスペックの延長でしかありません。勉強しなかった親であれば成績も行って中位。運動音痴の親ならまあ体力的な面以外はそこそこにはなるでしょう。

ただ親のスペックもさることながら、問題はその考え方にあります。自分たちは勉強しなかったし、ある時期に来れば塾に入れればいいみたいなメンタルで、いわば教育への努力義務を放棄するのがよくない。

これがどういう結果になるかは言うまでもありません。子供もまた自分の無能をアウトソースするようになります。

自分たちが向き合わなかったものにいざ子供が向き合う姿勢など取れるはずもなく、小さい頃の習慣はちょっとやそっとじゃ変わりません。その上、根本的な解決というのはおそらくできなくなります。

勉強がわからない、成績が落ちるといったことに対し、塾以外のアプローチを持たないのは自分たちが勉強をしてこなかった証左なのです。本当はその前に幾重もの段階があってはじめて意味を成すわけです。

病気になったらすぐ薬。日常の食生活や生活習慣の見直しではなく対処療法ばかり。次第に薬も効かなくなってきます。そうなればもはや詰んでると言っていいです。

なんでこんなにお金かけてきたのに何一つ形にならなかったのかと嘆く人がいるのかは知りませんが、金でなんとかできないから達成できる人にはもっと大きなお金が手に入るわけです。少なくない人が払って手にできるものなどしれています。教養にコスパという概念は存在しません。金銭で取れる最短ルートもありません。

アウトソースは確かにできないものを任せる一面がありますが、一方で代替可能なものでもあります。教育が果たしてどの程度アウトソース可能なのか、どこまで比率を配分できるか。少なくともそれくらいは考えないといけません。
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