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勉強の方法がわからない根本的な原因

必要に迫られてであったり、それに準じる形で勉強を始めようとすると、凡人というのは大体この壁に当たります。何をどう勉強していいのか、ネットを見て始めるか、本を買ってくるか、そもそもどこがわからないのか、誰かに習ったほうがいいのか。

まあ、知りませんよね。

ぼく自身「どうやって勉強しよう」の壁に当たった自覚があるのは中三になる前くらいでしょうかね。なんせそれまでは自主的に勉強しようという気が無かったですから。いざ受験を目の前に初めてそんなことを思うわけです。

基本は人の真似して問題集買ったり写経で覚えようとかするわけですけど、これはもうほぼほぼ誰でもが通る道で、ほとんど効果がありませんでした。

逆に、振り返って得意な教科を一個二個思い出すとわかるんですが、なぜ得意か、どうやってできるようになったか、やっぱりわからないんです。

苦手でも得意でもわからないのはなぜか。

それは単純に関わった時間が少ないせいです。できるできないは才能であり向き不向きです。一回聞いてわかる話もあればわかんない話もある、それだけ。したがって、勉強の方法なんてものを確立したければただ闇雲に時間を割けばいいのです。もっと言えば方法がわかったとてできるようになるかは別問題です。

例えば、ぼくは物心ついた時から(極端に言えば)一日も欠かさず何かしら車の情報に触れてきました。それは相当の詳しさである一方、いざ今更勉強しようっつっても改めて何ということはよくわかりません。

なかなか目先の効用という意味では何の参考にならないですが、凡人なんてのは時間かけるくらいしかブレークスルーしないもんだと思います。変なテクニカル覚えて各所に器用さ発揮してもどれも使い物になりません。学校の本来の役割は問題意識が先にくるものと理解していますので、だからこそやりたいものがはっきりしてる人には最短距離になりえるんです。

自分探したりモラトリアムを享受するのに学校が使われるのは、立場的に学生を名乗ることで遊ぶことが正当化できる点です。すなわちこれによって好きなものが見つかりさえすれば自ずから登るべき階段(広義における勉強の方法)もわかるということです。

好き嫌い、大事ですね
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