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自分のことはわからないもんだと思っていたけれど

思い違いをしていたようだ。自分がわからないというのは、同じく他人のこともわかってないのである。例えば、あの人はこういう人だ、と思っていてもふとした時にそうじゃないと感じることがある。つまり部分的にしかわかってない。ただ、これはおかしなことではない。

何が言いたいか。

自分でも相手でもわかっている範囲というものがあって、それはフォーカスの度合いに似ている。

 
この図のようにどこを見てるか、どこまで見れているかに差があって、自分にも他人にも同じレンズのサイズ感が適用されるわけだ。従って、わかる人は自分もわかっているし他人もわかっている。

会話の中で、それはメールのやり取りでも、自分のことをわかってくれていると思う相手はレンズが大きい可能性がある。逆にわかってくれない場合はレンズが小さいか、自分も見えていない可能性がある。こういった非対称なケースが導く結論は、他人を変えるのではなく自分を変えるということになるだろう。

自分を等大で認められないうちから他人を見ると、結局は人によってレンズの大きさを意図して変えていることになる。そこには無理なサイズ変更が生じ本来の解像度で見れていないとも考えられる。時間経過で価値観がずれる一因にはそのようなことも予想できる。

他人がわからないと悩むうちはまずもってその悩みは解決せず、まずは自分のことをはっきり見えるようにしたいところである。己が等倍で見れれば他人のことも歪みなく見れるようになってくるんじゃないかと思っている。

答えは自分の中に、というのはそういうことを言ってるんじゃないかなあなんて
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