Header Ads

自分は誰に何ができるのか

これは今年度の俺のテーマだね。むしろ今までそうじゃなかったのかって感じなのだが、まあ改めて意識した、ということにしておこう。

余裕がなくなるとどうしても人に目が行かなくて、自分に何がなされるかばかり見てしまっていけない。こうなると悪いことばかり目立ち、卑屈さが際立ってくる。あれもないこれもないなんてのは際限がない。一方で、じゃあ自分から発信できるものって何なのかと思うと、それもなくっていよいよ煮詰まる。

異性でも組織でも、そこに入って行こうと思うとやはり提供できるものが重要になってくる。与えられるものと与えるものというのはそういう意味ではコインの裏表のようなものだ。ハガレンでは等価交換なんて言っていたけれど、なかなかあの概念が端々に行き渡るほどに人生は均一ではない。

資本主義においては交換の手間を省くためにお金が中心に来てるわけで、基本的には何か等価だと思われるものに裏付けられている。金は信用だという向きもあるが、存在しないもので裏付けられるほどのものだとも言える。

こんなものが提供できます、と履歴や利益を開示して相手がうんといえば取引が成立する。その選択の繰り返し。偽ることや、評価を誤ることがあってもおかしくない。また、需給によってその価値に変動があるのも当然である。

与える喜びというのは一時の承認欲求を経て成熟してくるのかもしれないが、与える手数が少ないほどその欲求は増大しがちで、これがいろいろこじらせる一因でもある。手数は少ないほど把握しやすい反面、広範囲に承認されない。したがって、手持ちのネタを必要以上に褒められたがる。

こういうこともキリがないといえばそうだし、本人がハードルを上げなければ「褒められてうれしい」で完結する。

俺なんかは一回誰かに褒められたら次はもうそれに関して褒められることに一回目ほどの喜びは感じないし、まだこんなもんしか持ってないのかと情けない気持ちになる。それこそたいしたものが与えられないと悩みすらするよね。思わず家入レオのtime after timeが頭で再生されて、ずいぶん年下なのにもうそんな歌詞出てくるんだとか思って精神年齢の低さを自覚するとかしないとか。

ただ、こういうことって一度意識すると解決しないあるあるだからね。頭で考えすぎるとできなくなる例のあれだよ。そこを突破するブレイクスルー、とかいうとなんか韻踏んだ感じになってやる気がなくなったからこの辺で

では
Powered by Blogger.