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チーターがインパラを狩るのと人が牛を屠殺する違い

動物に高度な意思があろうとなかろうと、狩る狩られるという関係が変わるわけではない。お腹が減れば選別する余裕もなく、欲のままに動くのはおかしくない。草を食うことが高度で知的な行いなわけではないし、また屠殺に胸を痛めることは別に否定はしない。

あるメルマガでフードコンサル(?)のような人が、雑な殺し方をされた肉にはどんな想念がとか、それを食べた私たちの体にどう影響が、などと述べていた。さらに廃棄の多さと飢餓に苦しむ云々とあったので、あまり領域外のことは口にしない方がいいのになあと思った。

通常の食材における陰陽の話やなんかは非常に参考になるだけに、妙なところに偏りを持ってる印象である。まあどの領域も行き届いてるなんてことはありえないのでいいんだけど。

こういう話は二元論みたいなもんで、生理と摂理がこの場合はあるわけ。命は命でしか維持できないけど、できるだけ命を取りたくないっていうジレンマ。



順に処理すると、食料過多は地球の維持できる限界を超えた人の多さをカバーする科学技術のほころびで、飢餓は一種のバイオバランスと言える。そこの需給ギャップは別原因だ。発展途上国のスラムのそれと後進国のそれではケースも違う。

一方は輸送、一方は衛生面、一方は政府。例えば、いくら食料が届いても、不衛生すぎて取った分より下す分が多ければどうだ。そんな栄養ベースで飢餓認定されてるところ、別に食料優先とは言えないよね。

食の取り方について、という意味では余計な話。考える問題ではあるけれど飛躍しすぎ。食う食われるほどシンプルにはいかないにしても、レトリックになっちゃったら元も子もない
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