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友達が少ない / いないというポーズ

原理的に言えば提供できるものが多いと需要が発生して自然友達が増える。友達とは言わないまでも、知り合いになりたい人の潜在数は増えるように思う。だから、芸能人で友達が少ないとかいうのは本人の提供できるものが少ないのではなく、自分と同程度もしくはそれ以上に提供できる人がいないという意味なのかと。

仕事でもそうらしい。経営者は会社に貢献するかどうかで人を雇う。ただ作業をやって対価を得るのはバイトで、会社に利益を出すのが正社員なんだって。

へー(棒

まあどうでもいい、そういうビジネス本みたいな話は大学時分に散々読んだ。ある意味で、真面目というか。言わないと我慢できない人は一定数いて、おせっかいでもあるし、力を誇示したいようでもあり、承認欲求がまだあるんだろう。

話を戻すけど、例えば俺の場合はそれこそ誰かに価値提供できるほどの要素が少ない。したがって友達が少ない。それは問題である。友達が少ないことではなく、価値がないことが。

実際問題人がどう感じているかという問題なのだが、かといって俺が声を大にこんな売りがありますというようなものは思いつかないし、やらない。何かに詳しいとか、すごく熱があるのとは違い、誰かの心に刺さらないといけない。中にはその情報深度が刺さる場合もあるのだけれど、狭い範囲の訴求に限定される。それは交遊に関してもスケールする。

人と違う(付加)価値の提供といえば聞こえはいいが、それは基本となる価値のベースが同じという前提があってこそ意味をなす。付加部分にピンとこない期間が長ければ価値観の違いというし、ベースを埋めようとすると余計に距離が開く。これが似た者同士で集まりやすい理由である。差別意識が害悪化するのはそのレイヤーがクロスする環境に間違った平等意識が介在するためだ。

見たいものを見る癖がある脳は処理においてもしやすいところから行う。解決すべき場所からではなくまずは来た順に片付ける。友達がいないといえば、その多い少ないを議題に上げる。薄っぺらい議論になるケースはこれが原因なのだろう。

最近久々に手に取ったビジネス書かなんかに、いい老人ホームとは何かという問答が紹介されていた。それはこれこれこういう理由より何より、自分の親をそこへ入れたいと思うかどうかだみたいな件だった。まあそれの是非はともかく。その「これこれこういう」という部分はいわばキャッチであり中身とは言えない。

つまり、友達がいるいない、多い少ない話を正面から聞いても「そうだ京都へ行こう」という程度のインパクトしかないのである
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