Header Ads

コツがあるものは達成してもつまらない

15くらいまで、ゲームを全クリする精神的体力がなかった。むしろ、ゲームに限らず習い事でもなんでも、何かをやりきったことがないような人間だった。だった、というか今もかもしれないが。とにかく、ゴールが見えるともう最後まで見なくてもいいやという気になる。

大概のことはうまくできない状況から少しできてくるあたりが楽しい。学問的なことでも、半分はわかるくらいが眠くならない水準だと思う。運動でもそう。筋トレなんぞ考えもしなかった10代前半、Gのつくある人をきっかけに股を割り始め、今では筋トレこそ最強のソリューションだと思っている。


二十歳過ぎてから、少なくともゲームくらいは完遂仕切るようになり、少しづつやり残しは減ってきたように感じる。達成感なんていうと仰々しいし、そんなものは欲しくもないのだけど、一歩何かを進めたい時にはやり残しも邪魔になる。

ただ、やっては次やっては次と、タスク処理に追われることに慣れると、人はそこが本分になりコツを求め始める。攻略サイトや勉強法、そして大人になれば仕事術とか稼ぎ方などという。

コツはプロセス、言語化できて誰にでも適用できるなら人の営みとしては下。なんのためにやってるかわかったものではない。やりたくなくてもやらないといけないといった、消極的な動機が人生にはあるのだろうか。だからコツ?

これでは視野が狭まる一方だ。コツのような付け焼き刃ではなく、自分のソリューションに意味がある、これがセンス。ある意味コツはセンスと混同されがちで良くない。センスはもっとファンダメンタルな部分、コツはテクニカルな話。センスがなくても反復と慣れで成果を出せた例をコツと表現する。元は骨と言って意味違うんだけど

曲や絵といった芸術ではコツによってセンスにリーチできるかが大事かと思うものの、発表の機会の多寡によってセンス関係なく売れたりすることもあるから、見てるぶんには不思議なこともあるんだよね。それが本人にとって面白いのかは別にして
Powered by Blogger.