Header Ads

一生モノという言葉の一生じゃない感

俺は高校の入学祝いにオメガのスピマスをもらった。もう名前だけは有名なもんで、齢不相応だとか、金持ちかなどと、面倒なくだりがあった。やれ一生モノだと、言われてそんな気がその当時はしていなくもなかったが、ちょうど10年超えたあたりで動かなくなった。まあノーメンテだったから当然なんだけど。

で、いろいろ突っ込みたいところはあるのだけど、まず初めに。オメガでもピンキリだということ。またスピマスでも山のように種類があること。総じて、買うことを真剣に視野に入れてない人間がそういう発言をするのが目立つ。

これは何も時計に限ったことではないが、芦屋といえば金持ちの土地だと言ったり、ベンツといえば高級車だと思ってたり。何だったらベンツという車種があると思ってるクソミソもいる。レクサスですらそうだ。レクサスのどれ欲しいのって聞いても、はぁ?みたいな顔をする。

ちょっと話を突っ込めば詳しいだのオタクだのいう風潮は。その環境が良くないということで、そういう環境からできるだけ遠くにいくことが望ましい。俺は二回に一回くらいそういう環境に当たるから次はそうじゃないことを願う。

さて本題だが、時計の話でも触れたようにメンテナンスが重要だということ。いかに機構が精巧で複雑で芸術的でも、ずっと同じようには機能できないのだ。ギアにオイルが枯れれば摩擦で消耗するし、ゴムは劣化してボロボロになる。動くことで劣化し、かつ止まっていても劣化はする。

ヴィンテージやアンティークがそれとして存在できるのは経年の劣化を乗り越えてきたからである。モノはお古と呼ばれ、人は老害と呼ばれる。磨いたギアは他と噛んで回り、始めて機能する。では人はどうやって劣化を止めるのか。

厳密に言えば価値という問題なのであって、事実上の劣化はないわけがない。劣化の傾きが極めて緩い、程度の意味合いである。肌一つとれば洗顔後の化粧水もそうだし、姿勢を維持するための筋トレ、テクノロジーを理解する思考、それらの蓄積だ。

一生変わるという前提こそが一生モノに近づける手段なのだろう。
Powered by Blogger.