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クズを損切るメンタル

無能な人間に文句を言ってる暇はない。クズはクズ認定したら即切ることをお勧めする。期待はしてもど短期にした方がいい。日をまたぐことはあってはならない。こちらが譲歩したらした分だけつけあがるのはクズのクズたるところである。

クズや無能は努力家と同じように蓄積でなるもの。日を追って改善するどころか、そのクズさは悪化の一途をたどる。従って、クズの弊害は対峙せずスルー一択となる。

無能さに、残念さと可哀想さ、つまりは同情心からクズの提案を受けたとして、それをクズ本人が自分を受け入れてもらってると勘違いしてることは多い。無能は自分の無能さに気付く能力が無いから無能であるように、ほとんどのことで間違った解釈をする。

能力のなさで実現できていないことを外部環境のせいにすることは当然のことながら、そのツケを他人になすりつけることを正当化する。しかし、他人にそういった事実を突きつけられても、その意味を理解することはできない。なぜならクズの蓄積の中にはないリテラシーだからだ。

周りに有能な人がいても有能な人は無能な人を避けるのがうまい。そうすると有能無能の環境はすぐに二分化する。その連鎖でクズはクズ同士コミュニティができる。部屋の隅にできる綿ぼこりの原理と根本は変わらない。

なぜこの脈略でそんな話ができるのか、という流れの読めなさもクズの特徴だ。流れが読めないのは本人に流れがないからである。無能同士の塊には新たに情報の流れがなく、沼のように澱んでいる。周囲は流れどんどん離れてますます現実の乖離は広がっていく。

ただ、そんなクズがなぜ生き残るかというと、クズが必要な場面も世の中にはあるからである。クズは切っても別に死なない。ならば切らない手はないのである。切って切って切りまくる。邪魔が入らないことは環境として最善なのだ。
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