Header Ads

同じ列の人

自分と同じような価値基準があったり、目指す方向が近いみたいな意味で使います。同じ列。似たような言葉では同類とか同族みたいなのありますけど、おれは好んで同じ列という表現をします。

例えば、思考のステップであったり、物事の説明から解釈、善悪の基準まで、列が同じなら共有できるものが多くあります。

同類同族は表現上そうあっても、いまいち整然としていない感じが残ります。ビジュアルで言えば同類は円で囲める。同族はツリーダイアグラム、列は串団子とでもしましょうか。

そして、どうやっても平行線で相いれないという点でも列という表現は都合が良いです。一度並んだらなかなか並び替えも難しい。それこそ生まれつきのものもあるかもしれません。カーストとまでは言いませんけど

この列という発想を理解できないと面倒が増える一方です。使うべき脳領域を錯覚したままいくら話し合っても何も解決できません。なぜこの人はいくら言っても理解しないのか、ではなく説明のアプローチから変えないと意味がありません。そもそも脳へのアクセスが許可されないんだと、前提を立てる必要があります。

馬鹿とはいつまでたってもこの辺の折り合いがつかないものなのです。というか馬鹿は自分の延長線に折り合いがあると思って疑いがありません。違う列だからつくわけがないと割り切るインテリジェンスがないわけです。

なまじ集団で生活してると、ルールの必要性から常識ベースで安易にものを語り始める人が多いです。この常識といった概念がどの列にもあると思うのもそれはやはり違う。不理解のスタートを「常識がある」としたところでもうゴールは見えています。しかしそう考えられられない人はいつまでも同じところをループしてしまいます。

見えてる範囲が小さいと、まずそれが円の内なのか外なのかもわからず、ツリーのどの枝かも特定できず、並ぶ列も見つかりません。それに気付かないままいくら行動しても作用する先がないので意味もないのです。

コミュニケーションにおいても、本来は列の違いをわかることが要求されていいと思いますが、現状とてもそういった気配を感じることはなく、単に多く言葉を買交わせるだけの上っ面を必要としてそうで、なんとも滑稽ですね

Powered by Blogger.