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戦争と平和は対極の関係にあらず

時期ですね。特に今年は70年の節目ということでさらにその熱が高いです。そこかしこで戦争について騒がれています。テレビを見ても子供達が絶対戦争はしてはいけないとか、口を揃えているのがどうにも変な感じがします。

おれは静的な平衡状態を自然に感じない質なので、どんなに人が進化しても波の中の一瞬にしか平穏を作れないものと考えます。かつてユウナが言ってましたね。「永遠のナギ節、それが足元から崩れていくような気がして...」

ゲームキャラのセリフですが、大事なフレーズだと思います。人は、極端に言えば暇な時こそ争いたいと思うものです。ナギ節とはシンという災厄から逃れられている時間です。それが崩れるのは一種現状の不満なわけです。あれほど求めた平和な時期、しかしそこには物足りなさがあります。

平和な時代に平和を唱えるのは、ではどういうことか。それは情報の過多により、世界の各所に起こる波を自分ごとに見ている影響です。編集された戦争の悲惨さを映像にすれば多くの人は嫌悪感を持ちます。こんな状況だけは嫌だ、こんな状況にある人はかわいそうだ。そう思い始めます。

基本的なことを言えば、しなくて済むならその方がいい。己の最優先事項に戦争がある人以外はそう考えると思います。現代は戦争してる暇なんてないくらい他にやることがあります。

会社組織に当てはめても同じです。有効な仕事をしてる人は他人の悪い面にフォーカスして叩いてる暇はありません。暇な人ほど荒探したり注意したり批判したり、全くとは言いませんが利益にならないことばかり。それで仕事した気になっています。コンプライアンスなんてのが周知されてからは、特に保身に手を焼く規模の会社だと暇人が増えます。

暇は作った時間ではありません。これはタダのものと同じです。その辺で吸ってる空気と同様に大切という意識が薄れていきます。量からフリーになったバイキング同様、日頃取らない行動も起こしやすくなります。暇をなめてはいけません。暇が過ぎれば人は死にます。

まず生き残ることが前提、それは平和も戦争もないのです。平和でも人は死にます。戦争しなければなんでもいいなんて想像力だとどこまでいっても終息しませんよね。だから歴史というダンパーが存在します。移ろいやすい人の思考よりも、事実に習うのが重要なのはそういうことです。

考え方とか姿勢、理念、そんなもので訴えても現実は変わりません。上に立つ人間はそれを行動で示す義務があります。立派な言葉を覚えて、耳触りよく話せても何の意味もないのです。なんでも話せば解決するというのは、話し合いで片付く程度のことしか解決してこなかった無能の怠慢です。

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