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いい音はない、自分の好きな音があるだけだ

ハイレゾって、かつて2000年ごろにピークを迎えた時のような音楽業界のインパクトはないように思います。音楽の消費の仕方も年々激しくなって、それはデータというパッケージの進化も当然後押ししています。それこそ某ベックスはCDのプレミア化、わかりやすくいえば枚数限定生産などで消費意欲を煽ってたことがありました。

まあ誰ということもないですけど、一枚目は20万枚とかで、二枚目は5万枚と。そしてで切ったところで全収録したアルバム発売。ちょうどその頃ですね。俺が大量にCD購入するのをやめたのは。

98年頃コンポを購入して、音質というのにもこだわりが出ていろんな音を試しました。いまや無残な◯ャープも1bitオーディオなんて気の利いたシステムを作り、俺は大いにその音に感動したわけです。思い出の特徴ですが、未だにあのインパクトを超える音には出会えていません。

しかし、年を経て再びハイレゾを期にアンプを購入し、これからスピーカーへ金を注ごうと思った時です。視聴を重ねた上で、ああこれはきりがない。いい音ってその時どきの好きな音なんじゃないかなんて考え出しました。事実、中学から高校にかけては低温に傾いていました。大学時分はより高い音、クリアな音が好みでした。

今ではどうか。ネット界隈で評判のいいセンソールとか聴いてもいまいちピンとこず、686S2のような高解像度が好みだったりして、しかし何れこの音にも飽きるのかという気がしてなりません。言ってしまえば変化に耳が喜んでるだけなのかもしれません。あまりにソースが悪くない限り、同じクォリティで聴けば飽きるのがおれの性であり、その粋を出ない。これではきりがないわけです。

いいと思うときはカーステのデジアンとかでも十分楽しめます。パソコンにつながってるアクティブスピーカーでも満足に感じることだってあります。比較すればシステムの規模でより良い音らしいものに近づけることはできるのかもしれません。ただそれはとてもアップサイドの小さいことです。

音に限らず言えることは、良いとか悪いといった概念が結局は好みを正当化する理由付けでしかないということです。なんでも素直にあればいいのですが、大人というのはつまらない講釈を覚えてますからね、どんなうさんくさい論でも好きを隠す盾に使うのです。

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