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発想は天才の義務であるが、アプローチは凡人の努力である

日本でまあ、のんべんだらりと大学まで行くのに大した発想は要りません。規定のラインを走って行くのに必要なのは体力です。その体力の中身は純粋な持久力だったり経済力だったりするわけですが。ではどういう場面で発想は必要なのか。

それはレールがない悪路を走って行く時ですね。厳密に言えばレールを外れるという発想が出るかどうかという話ですが。

これは脱線が原因の人もいれば意図的に線路を降りる時もあって、いろいろです。いざ線路を外れれば舗装された道路かはたまた山道か、それとも海なのか。着地点によってスタートは異なるにしても、そこからは方向もペースも自分で考えないといけません。駅もなければ終点もわからない、そういう中に身を置くことになるのです。

目的地があって最短ルートを歩めた人、これを観測者としてみると才能のある人と写りやすいのが昨今のトレンドです。そんな波にあって、自分は寄り道迷い道ばかりで才能がないと思うのが情報過多の時代における弊害です。

では凡人はレールを外れるべきではないのか。もちろんそれも一つです。ただ、凡人の努力ほど運に左右されるものはないので、レールにさえ乗ってれば安心というのは、予期せぬ脱線やあるいは廃線に対応できないということになりかねません。

レールの敷かれてない中、最短でもなく、走破力があるわけでもない人が生きていくために必要なのがアプローチという視点です。所さんがいう工夫と言っていいかもしれません。

発想は点であり、そこから放射状に広がる可能性はアプローチの数に比例します。いくら優れたアイデアでも拡散して大きく成長しなければ日の目を見ないのは言うまでもありません。理論は仮説で市場が正解、それが歴史なのです。

0 → 1が難しく、評価されるのは知ってます。しかしだからと言って1 → 100に価値がない理由にはなりません。100のサイズになるからこそ1が生きてるのであって、両者のバランスで成り立っています。誰が言っても両極に振れる話はポジショントークですからね。

変に優劣で考えるからややこしくて、平たく言えば天才と凡人の差は役割の差なんじゃないですか?

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