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どうしてこれを買ったのか、選ぶ理由にある裏付けとは

俺の情報収集の一部にもなっているツイッターのTLで、ポルシェを買いに行ったのに最終的にオデッセイを買った話がリツイートで流れてきました。客は車ではなく人につくと締められていました。果たしてそうなんでしょうか

いつも思うんですが、何を差し置いても最後は人に帰着させればいいっていう空気なんなんですかね。一部の影響力を持った人の言葉を持ってきたようで、どうもその「人」自身を感じない節があるのは俺だけですか。

まず、車に関して言えば、知識も情報も無しに買いに行けばそうなりますよねくらいの話です。極端な話、所さんがディーラー行ってこの人好きだからこの人の言う車買っちゃうなんてあるでしょうか、ということです。それにまさか、ディーラーがこんなんありますって営業かけるでしょうか。まあ金引っ張ってこようと万が一にも賭けるのが営業らしいっちゃらしいですが、根本的に、人が前に出てきて車を二の次にするようなのは違うと思うんですよね。

最近も、ツレのタブレット買うのについて行って、各店の人の話聞いてて思ったんですが、カタログ以上のことはそうそう出てこないんですよね。誰も実機を買って使ってないから説明のしようもないというか。確かに、家電なんて一個一個買って試せないし仕方ないとは思いますよ。

服屋の人はよくそのブランドの広告代わりに買って着てることも多いのでその辺は違いますが。逆に体型とか組み合わせの妙もあっていろいろ割り引く必要があるのも事実です。

実物を見るために足を運んでも、人というノイズが入るせいでより実物が歪むということも大いにあり得ます。まあそうやらないと売れないような製品が多いから営業や販売なんて職が成り立つわけでもあります。もちろん需給が前提で。

もっといえば、ファンダメンタルという視点で見ると冒頭のくだりは、ポルシェよりオデッセイが優れているとも言えるわけです。過去、盲目的にポルシェの価値が引き上げられていたものの、実は現代の人にとってバリューがあるのはオデッセイであるとなれば、もとより人についたのではなく車についたと考えておかしくないのです。

解釈はいつでも結果を見て人の都合いいようにできるからとても便利です。しかし事実は解釈にありません。生データと結果は分けて考えるのが通常です。

この何年かで自動化という名の「人 / 機械コンバート」が進み、相対的に人の価値が落ちだしました。それをプライドの手前維持するために世間は暗黙のうち人の価値を上げようとしました。それが「最終的には人」というスペルです。

あれこれ言ってますが、詰まるところ人という点には当然アグリーです。否定しようもない現実ですが、そこに至るプロセスが違うので同じ理解でも対立構造が存在します。すごく大げさに言えば、世界の各所でもめてる宗教の絡んだいざこざも、その延長にある話だと思うんですよね。

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