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本性は、周囲の印象へ寄せにいく

付き合う人間何人かの平均が自分という話があります。確かに、周辺の人間によって遊びに行く場所も変わるし、移動に比例して考え方も変わる気がします。そして、一緒にいる中で自分はどういう人間なのかとカテゴライズされるわけです。

移動、と言いましたが、俺は生まれてからずーっと同じ場所にいるのでろくなもんじゃないですが、かといって地元礼賛のマイ◯ドヤンキーというわけでもありません。基本的には地元なんて離れたい方なのです。

一時期ネットやゲームやアニメのおかげでバーチャルな旅を楽しんでいましたが、幸い付き合う人間が変わることで、どこかしこに連れて行ってもらえる環境にも恵まれました。まあ自発的ではないにしても、誘われるからついていくというフットワークは決して悪いものではないと思っています。

しかし、どこかを拠点にしてという意味では物足りなさを感じることも多いです。日本においては東京を中心に物事が進むので、移動に関しても東京からが一番都合のいいようにできているはずなのです。かつての日本の中心はリニアが来るの来ないので、もはや移動先の一つでしかありません。観光で受け入れを期待するとか、ちょっとそういう土地で生きていくという気分じゃないですね、今の俺は。

話がずれましたが、地元に残ってる人で今でも絡みがある人ってのは俺にはいません。大概どこか別の地で暮らしています。元々地元に友達が少ないっていうのもありますし、そもそもどこまでを地元というのかも微妙ですが、概ね県内とでもしませう。

田舎にいる人間は情報もローカライズされているので、あの人はこうなったとか人伝にでも入ってきます。いったん離れてしまえばもうその人伝は機能しなくなり、情報化社会のくせに跡を辿れなくなります。そこに登場したのが顔本ですね。

インスタやツイッターでは滅多に過去の人間に出会いませんが、フェイスブックだけはわんさか出てきますよね。あれで一気に冷めるわけです。おれはそもそも別目的でアカウント用意しましたが、リアルの延長臭が強くてなかなかあっちサイドには行けそうにありません。

例えば、周囲の人間が俺を酒好きだと認識していたとして、実際にはそうでなくても、飲めてしまえば酒好き認定されるわけです。しかし、もっと酒を飲む集団に入れば別段酒好き認定されない自分もいるわけです。こういったことが顔本では一緒くたに存在し、変化ではなく拡大ばかりが発散され続ける結果になります。

移動によるコミュニティの発展と、これまでの関係性の切断はセットになって維持できると個人的には思いますが、なまじ理解もなしにつながりっぱなしというのは昨今のSNS疲れを招いてもおかしくないですね。

つまり件を逆説的に見れば、人を断つことで自分が何かわかるという、まるで説法で聞いたかのような結論が出ちゃうっていう。これを帰納法と言います(嘘

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