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家具や家電といった家◯はいずれ無くなる方向にある

昨今のシェアの流れの先にあるのは家の喪失だと思うのです。

まあそれは言い過ぎかもしれませんけど、家具や家電の存在感は小さくなる一方だと感じてます。おれもかつては家具に凝ったり家電に凝った時期があって、もっと広い部屋だったら実現できるのになあと考えてました。しかし、今となっては多くの家具/電に必要性を感じなくなりました。

なぜか。多くの機能が限られたデバイスで実現できてしまうからというのが大きいです。テレビを含めたオーディオ関係はパソコンだけあればいい。家具といってもずっと家にいるわけでもなければ、寝るか座るかだけのソファがあればいい。じゃあ広い部屋もいらない。そういう感じ。

家事というのも生活家電の登場で存在は小さくなるばかりです。家族という形態のあり方も人口減少がそれを物語っています。家にぶら下がる事象というのが消えつつある中で、表面化した問題はいうまでもなく。持たざる生活の出来上がり

どれかを持ち始めれば必要なものは順に出てくる一方、一つ手放せばまた一つ減り、動き出したトレンドに従うようになります。循環というプロセスでしょうかね。生まれた時に手ぶらで出てきて、手にしたものも終には手放して去っていく。まあ、だからといってどうせなくなるから持たないというのは違うんですけどね。

これも結局のところ選択というか、持つ持たないより、何を持つかというところなのかもしれません。株は持たないでいいけど通貨はどこか持たないといけないのと似てます。

話はちょっと飛びますが、かの次元大介が最近の映画であるスナイパーと早打ちの勝負をした時に言ってたセリフが印象的でした。
俺に言わせりゃ、ロマンにかけるな
詳しい内容は映画見てもらうとして、大まかに状況を言えば、相手の銃が軽くて早打ちをするには合理的なのは百も承知。なのだけど、それでも重いマグナムを使うのが次元な訳です。とても非合理ですけどそういう次元だからかっこいいと思うんですよね。

要は何が言いたいかというと、自分のシグナリングとしての家◯を除いても自分が残るように生きてることこそ、人がより人でいれるということだということです。ものに紐付いてる間はノイズだと思いましょう

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