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教育で身につくもの

常識や、限られた経験を元にした行動は、その主体が代えがたい誰かである必要はありません。ルールやアルゴリズムで動くプログラム同様、人でなくてもいい。教育の半分はそういう面を持ってると思います。俺は昔からあまり人の話を聞かない一方で、ちょっとでも認めるところがある人の台詞とかは結構覚えてたりします。
科学は主観ですからね
これは大学生の時卒検発表かなんかの時に宇宙の理論の教授が言ってました。

世の中的には、客観的な視点がーとか意識高い系の人たちは言うわけです。それも一理あるんです。一面的では見えない側面という意味では。ドストの罪と罰じゃないですが。ただ、視点も定まらないうちから客観とか言い出すと話がおかしくなるのです。

確かに、科学という汎用物を扱うにあたっては、誰しもに再現性がなければスタッ◯〜みたいな事態も起こり得ます。しかし、あれも含め世の中の多くは仮説に過ぎません。飛行機が飛ぶのも一般的に揚力でという説明がされますが、昨今では微妙にブレてるという話も出ています。宇宙が何次元だとか紐なんちゃうのとか、小難しいことじゃなくともたくさんあります。再現できれば理論は正しいのかというと、ニュートン/アインシュタインの例もあったりするわけで、単純には答えは出ないのです。

目の前で常識的に行われてることが納得できてその通りだと、疑いようがないと信じてる状態というのは、そういった意味でかなり危険な思想だと思います。

戦時下において日本人は国のために死ぬことを是としてたのは、本当か嘘か、学校で習いました。振り返って今日の感覚であれは異常だ、と思えなくもないですが、世界のどこかではあれが標準な地域もあるのかもしれません。みんなこう考えるだろうといった思い込みが一番良くないのです。一世紀も経たないうちに常識なんて変わりましたからね。しかも、ネット社会で情報の伝達も段違いに早くなりました。そんな中で安易に常識とか言えませんよね。

だから、おれは主観ベースじゃない人とは話したくないのです。原理原則もクソもないような取って付けた言葉しか持ってない人間に価値はありません。有限の時間の中では話す人間も選ばないといけません。教育では正解があることを教えられる機会が多いですが、正解も一定ではないようです。小さい声で発せられた正解と、大きい声で発せられた間違いの受け入れ確率は言うまでもありません。教育とは前提であり結果は様々なのです。

ああ無常

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