Header Ads

直感の信用性

見た目で判断する正しさは、昨今科学的に証明され始めています。自分自身、男女に依らず、初見のビジュアルでこの人とは合わないだろうなと思うことがあります。そして、後々多少の補正は入っても、凡そのトレンドを転換することはありません。

人付き合いは時間経過で考えを変えることがあるかもしれませんが、そこそこ大人になるとファーストコンタクトでの印象そのままということも増えます。いろんな人と出会ったことによる経験値がそうさせてるのでしょうか。
例えば、似た系統の顔が似た性格を持っているとは俄に信じられないかもしれません。しかし、明るい表情や暗い表情の判断を元にその人を判断することは非常に多いと思います。骨格と筋肉のバランスでそうなってるだけだとしても、人は平気で暗い顔は暗い性格だと認める。

問題は暗いから悪いという世間の心理です。多くをハイペースで話すことがコミュニケーションの形だと勘違いする知的障害もさることながら、明るい性格こそが正義だという原理主義も相当イタい。単に、パーソナルな好き嫌いなら何の問題もないですが、組織を盾に客観とか持ち出して語ると質が悪い。

年々、組織の力が増大し、そこに巣食う個人は単体での責任を放棄しています。自分の行動に疑いを持たない人はアクションの経過をフォローしません。正しいか正しくないかもわからないまま、走っていきます。自分が確立した主観ならまだしも、客観などでものを語り行動すれば、世間のトレンド転換とともに考えが歪められても気付くことが出来ません。自分はずっと間違わず正しい行動をしてきた、そう思うでしょう。

そしてそんな考えの人たちは有事の際に国のために死ねって言い出す訳です。

教科書的に歴史を勉強すると、そういうおかしな時代もあったとか思ってしまうのですが、実際目の前で起こってることに関しては盲目なのです。直感は収拾できますが客観は収拾できません。昭和の初期の人が戦国の歴史を学んで殺しあうのがいいことだとか言ってたとは思いませんよね。

気持ちを合わせるってのを、信条や矜持まで変えさせようみたいなレベルにしたのは本当に教育の失敗。教養が無いばかりに、不可侵のラインもわからず、納得させるためのテクニカルな面ばかり浮き上がってきて、ファンダメンタルズを無視する。アートもロジックもセンチメントも、ごちゃごちゃな理解だとそうなってしまいますが。

まあ自省したりとか面倒なんですけどね、面倒も無しにはとても人が生きてるとは言えないですからね。

Powered by Blogger.