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新旧という概念はなく、ただタイミングがあるだけ

テクノロジーは進化して、発見した順に世に出る訳ですが、人の思想的な変化なんてのはそれに比べてバリエーションに乏しいと思うのです。

古代インドの思想: 自然・文明・宗教 (ちくま新書)
山下 博司
筑摩書房
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というのも、何かにつけ人は考えが変わった気になったとして、それが劇的に新しく、有史上存在しなかったものだ、なんてことはそうそう聞いた事が無い。

よく、海外に行って視野が拡がってみたいな話もありやす。当人にとっては新しく新鮮でしょう。大人になると腰が重たくなる一方で新鮮みも失いがちになります。そんな時に栄養剤としては効果を出すであろうそういう体験。大前研一さんも住む所を変えれば人は変わるといいます。

俺からすると変わった先も誰かの息のかかったものだとして、それに何の価値があるのと思います。悪い意味じゃ無く。ただ、世の中がそれを高付加価値だと認識するあたりが危ないなあと。アービトラージと同じで、単なる地域差に騒ぐことで得られるものってそう無い気がします。ちょっと教養のある人からすれば、そこに至るまで歴史も地理も不勉強だったのかなあと感じるんじゃないですか?

生まれてから「勤勉」を尊いと植え込まれてきた人がインドの「放棄」に触れて、まあそれにフィットしてしまえば過去の自分は何だったのかと思っても仕方ない。自分のことなんて死んでもわからないだろうから、生きてる限りその繰り返しになる。たまたまある時点にある地域に生まれた、それだけのこと。不平等はそういう話。

こと、インドにおいてはカーストという習慣があるので尚の事わかりやすいです。こういうのは思想どうのでは動かしがたく、その地位を揺るがしたのはITという産業の影響。つまりテクノロジーなわけです。仏教の生まれた国ですが、心で動かしがたいものを物質で動かすこともあるんですね。

言い過ぎかもしれませんが、心一つで変わるものってそうないんですよ。会話だけでは足りないし、態度だけでは納得しないし、結局ずっとものに頼って生きるしか無い面は否定できない事実です。物欲って意味ではなしに。もちろん、ものに裏付けられたってどうもならないことも多いですけど。

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