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ルールのノルマ

ノルマというのはどこにでもある。会社であれば売り上げ、学校であれば課題とか点数といったように。それに苦しむ人が多いのも事実である。しかし、そのノルマが物事を歪めることが少なくない。

警察なんかはどれだけ件数を上げたかなんて言う訳のわからないノルマがある。逆だろうが。ただ、一方で個人とは別に、指標としてのノルマも存在する。

どういうことか。大阪府のようなワーストで記録を持っているところは出来る限り件数を計上したくない。従って、警察の沙汰もなるたけ話を大きくしない方向に納めるようにもっていくそうだ。衝突であれば人身ではなく物損といったように。勿論そんなことは大っぴらに公言はしないだろうけど、世間はそういうもんなんだろう。

正義感なのか真面目なのか、事実の通りに処理する人も勿論いて、それが正しいとかどうとかじゃない。結果として、ある程度まではルールを適用し、閾値を隔てて話が変わる現象が存在する。投資でもそうだが、自分がいくら儲けたくてそれが何のためなのかわかっていれば、いくらまでの損は許容できるとわかる。単に指数として何パー落ちたからなんてやってると大けがをする。

世の販売店も当然売り上げがなければ回ってゆかないが、客のためという名目とどれだけ両立できるかはわかったもんじゃない。可能な限り売りたい側と、安く欲しい側。構造の悪化は両者をブラック化させる。よく、企業だけが問題になるが、ことの成り立ちはいつも二面性を持つ物だ。自然発生的ではない。

L'Arc-en-Cielの砂時計という曲で
犯した過ち気付かぬ人々は全てを許されるの?
というフレーズがある。自分は関係ない、悪くない。誰もが自信を持ってそう思うのが一番困る。体良く悪者を見つけて全力で叩きに参加する様を見てれば人民の意識が垣間見れる。悪者になりたくなくて必死なのだ。よく己が善人だなんて確信できるな。

ルール通りが正義だというのもその延長にいるのは間違いない。責任は個で負わず、ルール通りではない物が悪。思考停止の最たる物だ。考える必要がないなら人でなくていい。ルールよりも人の価値が低い社会。年々下がるのは資産価値ではなく人の価値である。勉強代で失う物が大きいね。

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