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偽善や偽悪を見る姿勢

ここ数日暑さとは無関係に氷水をかぶる映像をよく見る。誰がかぶって誰がかぶらないでと、当然のように賛否の意見をソーシャルにぶちまけている。言論の自由とはこれ如何になんて言わないが、行動の沙汰をいちいち取り上げて一体人々はどうしたいのだろう。

確かに、これが一問一答式の学校教育の結果だといわれればそうですねとなる。しかし、その学校教育にもまた大人になった方々は一家言お持ちなのにそれでいいのか。ゆとりもつめこみも社会に出てやってることが同じなら良い悪いとか無意味だと思うのだけれど。

じゃあ、なぜこんな暇つぶしに時間を費やすのかといえば、結論は暇だからだ。

今期アニメでちょうど戦国バサラやってるけど、まさに家康三成のような対立構造がいい暇つぶしになっている。昔の人は暇になると死ぬか戦争するかだった。その点現代は何かしら死なない程度に暇を潰すくらいのエンターテインメントがある。ただそういう文明に触れられなかったり、妙にボンボン育ちとかすると争わずにはいられなくなる。

行動そのものはいいことなのに偽善といいたくなるのは、その行動をとった人が何らかの得をすると思ってるからと仮定される。偽悪とわかるような人が出てきてもそっとするのはほんとはいい人を叩くメリットがその他大勢には無いからだ。打算といえばそうだし、もうちょっと詰めれば、善を行うほどの努力よりも偽善を叩く手間の方が小さいという無意識的な働きがある。偽悪にもなれないのは、偽ってわかってもらわないといけないし、ただ悪として終わったら嫌だなあみたいな意識もある。

他人の目って誰の目なんだろうと思うよね。集団意識が強いと大勢の目がどれも同じように感じられて、些細なことまで増幅されて嫌になる。そうでもないのに。あるいは自分の目が普段人をそういう風に見てるから逆に見られる立場で萎縮しちゃうんだろう。

野球の守備やってんじゃねえんだから、何でもかんでも受け取って返さなくていいのに

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