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何でも知ってるといわれる恥ずかしさ

アマゾンの、これ買った人はこんなん買ってますに乗っかったことはないけれど、それはまあわかるなあくらいの提示がなされてるからだ。それ欲しいのは俺もわかってる。

昔、紙の辞書を勧めてた人が隣の単語も一緒に覚えて知識に広がり云々言ってたのと似てるようで似てない。

アクチュエータ工学入門 (ブルーバックス)
鈴森 康一
講談社
売り上げランキング: 22,880

本だとその導入が流れの中にあって、ネットのように何でもかんでもリンクが飛んでとっ散らかることも無い。何が言いたいかと言うと、知りたい情報に接するだけで済む今と、ずっと疑問を抱え込んで思わぬところで解決する知的余裕のバランスが悪いんじゃないかと言う話。

アクチュエータという響きはミーハーな感覚、例えばマンガを読んでマッドサイエンティストにひかれる程度の理系嗜好を持ってるなら惹かれるであろう言葉なのだ。とか、勝手に言ってみる。少なくともおれはその程度なので大いに気になってる訳である。

小難しく言って女子にすごーいとか思われることは無いので何の得もしないのだけれど、その辺に溢れる機械の構造くらい語れなくてどうチュウニを地でいけるのか。いや、行かなくていい。

まあなんにしても、ジャッキはあんな小さいのによく車なんて持ち上がるなあとか、プリンタのインクって何で出んのとか、理屈もわからないのにほいほい使ってる状況。人はこれはよくて原発はダメとか言っちゃうんでしょうか。自分勝手だね。みんな知らなきゃ罪にならないわけないのに。困ったら偉い人が知り過ぎてることを悪く言う。バカも同罪だと知るべきだ。

大人になるにつれ、ここまで知っておけば大丈夫的な常識を以て安心してるようなのは下。時代の変化とともについていくのは中。新しい価値を提案するのは上。知ってるいくつかはもしかして変わら無いかもしれないけど、二十数年で俺が知ってきたことですら年々変わってきてると感じてる。知識や技術もナマモノ、人だって鮮度がある。その人から出てくるものだけが変わら無いなんてことは無い。変わる前提で、変わってからもどうにか振る舞えるようにありたいね。

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