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やったことを好きになり、やらないことをしたくなくなる

十年くらい前までは運動も嫌いで、インドアまっただ中だった。今は家に出来るだけいたくないし、家にいても寝食以外はほぼ立って生活している。筋トレも負荷をドンドン上げたくなるし、一体どうしたんだと思う。

きっかけは君が映ったスフィアではなく、ストレッチにあったと思う。昔から体が硬く、平均的な人よりも明らかに前屈に難があった。そんなとき、Gacktがテレビで股を割ってるのを見た。
「もし地面が裂けたとき股が割れたら助かる」
みたいなことを言ってて、そうだ俺も割ろう、と。そこから毎日毎日、肉をひきちぎる思いで伸ばし続けた。16歳の頃でしょうか。一年経った頃にはなんということでしょう。180度股が開くではありませんか。

おれもやれば出来るもんだと、そう思い始めてから腹筋とか腕立てとか、筋トレらしきものに凝り始める訳である。その時はハラが割れればいいなくらいで、それも結局浪人した時には太って意味なくなったんだけれど。大学入ってからは暇なもんで、勉強するか筋トレするかくらいしかやること無かったんですね。でまあ毎日駅から大学まで歩いてるだけだとたいした運動にもならず、アブローラーとか器具にハマったりして、そこからは飽きずに続けることになった。

じゃあ今好きで筋トレやってるのかといわれれば、そうでもない。嫌いじゃないけどしんどいのに変わりはないし、もともとたいして男前でもないのに体型の管理も出来ないんじゃどうしようもない。確かに負荷を上げてやりきるといい気分なのは間違いないが、好きと呼べるレベルではない。しかしやめたいと思うほど嫌いでもない。一体どっちなんだい?

一ついえるのは、外に出れば出るほどに外が好きになり、ゲームはやらなければやらないほど関心が低くなったということ。人は行動を反復することを好きと認識するんじゃないかと思う。それがたとえ精神的に苦痛であっても気付かないうちにそれを好きなもの認定してるのではないかと。

一部では、好きじゃない人でさえ何かしてあげているうちにその人を好きになることは珍しくないと囁かれてる。これもそういう人間のアルゴリズムの片鱗なのかもしれない。何か外部の言葉なりに補完されて頭で好きだと思うこととは違う原理的な好き。ある意味では厄介なのである。理性の届かない上部の何かが作用して人を動かす。言わば人の本質は頭では無いと言ってるようなもの。

よくボキャブラリーも教養も無い人間がいう「手動かせ」であったり「態度で示せ」みたいなこともそういう点では核心を突いてるといえばそうだろう。もちろん、そこまでわかっていってるとは思えないし、だらだらと受け継いだ受け売りでしかない気もしている。なにしろその程度の人種は頭をアップデートをせずに来て、年々更新が難しくなってるんだから。

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