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細部に宿るのは

思い出話でも何でもいいのだけど大筋は覚えている一方、細かいことを覚えてないことが多いのは、そこが点として存在しているからだと思う。

十年以上前に一度プレイしたゲームがHDリマスターされて、特に新鮮みもないとは思いつつも、また今プレイしている。それこそストーリーなんて今更感はもとより感動も薄い。じゃあなぜやるのか。それは変わった自分を確かめたいからというのがある。

毎夏にジブリをやるのは風物詩的な意味合いもさることながら、毎年変わる自分を自覚するためだと思っている。
「前はこんな所に惹かれなかったのになあ」
「この言葉って今はこう感じるんだ」
わざわざそんなことしなくても変わってることはわかってる。もっと言えば、大きく変わってない人間ほどそういう細かい変化をもって安心したいのだろう。

大きい変化を経験すれば小さい変化は実際の経験以上に小さく感じる。例えば飛行機で旅行した時、いつも飛行機なら飛行機に乗ったという記憶はより小さくなる。ゲームは非日常感の強い方が記憶に残り、人間ドラマ的な方は疎かになる、本来なら。ただ最近はそれぞれのキャラが"人らしい"のでシナリオの突飛さが逆にぼやけがちになる。

小説や映画でも話の展開はそこそこに、登場人物の方が印象の比重は高い。俺としては擬似体験的な要素をゲームや映画には求めている。だから、キャラが強いものは面白いけど嬉しくない。

映画は二時間ちょっと、小説は長くても一週間、ゲームはひと月程度接して、どれくらいの割合を頭に留められているのか。個体差はあれ、細部の作り込みがなければとてもじゃないけど何度も触れれるものではない。音楽は特にそれが顕著で、日に何度も聞ける曲は極めて少ない。雅楽とかクラシックが時代を跨いで存在するのはそれこそ細部の影響だと思ってる。

大筋って言うのは生きてて自然に通る大通りで、多くの人が辿る。細部という側道は意図して選ばないと通常は通らない道。自分が実際に通るかどうかは別にして、見えているのが側道なのか大通りなのかは重要である。
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