マニュアルトランスミッション
今やすっかり見なくなったMT車。確かに、最近のアイサイトやエマージェンシーブレーキなどの安全装備を思うと、運転の負担を減らす意味でも当然の結果と言える。人はミスをする物だという前提で進んだ技術ではあるけれど、これによって起こる慢心というリスクとはどうバランスするのだろうか。本来、安全装備とは精一杯人為的に危険回避した上で作動してこそ意味をなす。アクセルとブレーキを間違えて踏む事故の多さに対応してたら何のための免許かと思う。こうなってくるともう、自動運転はさっさと実用化してその程度のドライバーを排除した方がいい。
しかし、あれだね。マニュアルのシフトを見てるとたまに思う、人生のようだと。上手くやらないと碌に繋がらないクラッチ、半分しか繋げないと焼け付く板。クラッチそのものがダメになると運転技術云々ではどうにも出来ない。エンジンパワーが同じでも4MTと7MTでは到達地点に差が生まれる。早くに経験を積むように、ギアをクロスにチェンジして先が無くなったり、一方ではまだ2速なんだってこともある。
ギアがなかなか入らなくって次に進めない。回転数が上手く合わなくてシフトチェンジ後も何かもたつく。上手くいかない人生がそんな感じだ。タイミングと表現される。自分が何に向いてるか。トルク型か、高回転型か。街乗りなのにレブリミットまで回すことは無駄な努力。適材適所なのである。進化した社会ではオートマのように、踏みさえすれば全て上手くやってくれる。なぜ今更シフトを変えなければいけないのか。オン・オフ・オン・オフ。面倒は嫌。シーケンシャルに物事が運べばそれで満足。究極CVTのように山も谷も無く、速度だけを増してく。
マニュアルがいい、何もそういうわけではない。ああ、ちなみに、クルマ好きを自称する中でMTをミッションと発言する奴、おれはクルマ好きとして扱いません。放射能を物扱いする人種と同じです。
誰が踏んでも同じように進むという再現性というか、平等性はいかにも現代的で素晴らしい。それが存在性というか、近代史という特徴の無いレゾンデートル。なんのこっちゃ。