現をぬかす間に
今年も残り三ヶ月となった。無意識に過ぎる毎日は日増しにその感を強めている。不平不満を言って、そして経て成り立った過去は取り戻せない。代わりに、まだ迫り来る目先の一瞬は必死に生きることが出来そうなのである。
決して有意義にならずとも、精一杯やることは重要であり簡単ではない。なぜ子供の頃は時が永く感じられるのか。いろんな研究があってどれも納得できる。新鮮という刺激のおかげだとか、人生に占める日々の割合が大きいだとかいわれている。でも、何が一番違うかって必死さだと思うんだよね。別の言い方をすれば熱さでもある。熱血とは若干ニュアンスが異なるけど。とにかく、物事に凄く執着できたと思う。飽きっぽくも、同時にはあるものの純粋な欲を丸出しに出来るのはほんの一時期だけだった。
成長といえばその通り。小利口で器用に世を渡れてしまうようになると余計に時が早い。子供の頃にごねなければいけなかった永く感じるときは減り、少ない楽しい時間を激流の如く経験する。
また明日からもがんばれる。
ハム太郎のアニメではシメの一言に
「明日はもっと楽しくなるよね、ハム太郎」
というが、あれは子供の発想ではない。そう思わないとやってられない大人の感想だ。がんばらないといけなくなるのは確かに大人の証だろう。誰が作り上げたのかわからない常識と同じような大人という存在。かくあるべしと思わされ、反面誰に言われることも無く、暗黙のうちに自分の中に作り上げた像。内にいる神とも似た、何とも厄介なものである。
世間という時に出てくる世間は、自分が見て自分の脳がそう思わせている歪曲した現でしかない。脳は単なるセンサーで、少なくとも人が意図的にアクセスできる範囲はそのくらい。何かを創造したり”したと思う”程度に都合良く働きはしても、上位ドメインへの介在はしない。新たな何かを生み出したというのは、あくまで自然というルールの下で相応の手続きをすると生まれる効果を記述できたということ。まあ十分凄いとしか俺なんかは言えないわけだけど、結局生きるというのは大小その繰り返しになる。
社会だって、もし神なるような物を仮定すれば、世界の創造主みたいに好きなことが言えるという意味で人の好き勝手で出来ただけ。そこにそもそもあった時間のようなものの概念を持ち出してもややこしくなって当然。たまたま太陽の周りをまわってた星のカウントで、たまたま生まれた生物の固有時を定義して早いだの遅いだの、実に滑稽だ。
昔、ダイの大冒険という本を読んで死ぬという絶対的に理解不能な物への恐怖が和らいだ記憶がある。dieという英語の意味を知ったときdieのdie冒険ということかと密かに思ってたがそれは多分違う。なんにしても、人の寿命とラスボスの魔族の寿命が違うことにポップという魔法使いが母親の話を持ち出し
「一瞬だからこそ一生懸命生きる」
という、今聞けば論点をずらされたかのようなことで気迫を見せていた。小さい俺はそれでもなるほどと感心していたが、今は別にそうは思ってない。
死ぬ寸前ですら、生きた時間も夢幻と思うほどに朧げなのだ。それをして、生きてる時に何を思わん、ということである。