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過去の教養

教育って本当、大事ですね。と、水野晴郎に似せて言ってみる。
ユダヤ人の友達がいないのでよくわからんが、ユダヤ人の優秀さはメディアでよく目にする。アカデミーや財界に名前が知れてる人の中にもユダヤ人は多い。彼らは神の下、幼少より教養を付ける日々を送るそうだ。19世紀後半のプロイセンではカトリックの9倍、プロテスタントの5倍、ユダヤ教の子弟はちゃんと学校に行ってたそうだ。以前、宗教画に関する本を読んだ時に、カトリックは聖書を読まない代わりに絵が必要云々みたいな件を知った。カトリックとプロテスタントの就学率の差はそういうところからもあるのかなと。

教養と軽く口にしてもそれが何なのかははっきりしない。誰かが
「人の気持ちがわかる事」
と言っていたのは割と印象的なのだけど、世間の認識が果たしてそうなのかは疑問だ。俺自身は結論そういうところに落ち着くと考えるようになったけど、じゃあどうしたら身に付くかって、よくわかってない。相変わらず本読んだり人の話聞いたり、進歩も見られない。

本書に、テキパキする日本人とおっとりしたユダヤ人なんて事が書かれていたが、テキパキしてない俺からすれば日本人のテキパキさは感心に値する(お前も日本人だろ)。例えば何人かで遊びに行って、片付けしようってなった時に、まあ俺は何も出来ない。というか周りの要領が良過ぎて俺のやる事がない。なんかね、まるで知ってるかのように片付ける。俺なんかだと
「さて、じゃあどれから片付けたら良いかなあ〜」
なんて考えるところからなのに、もう終わってる。すべて準備してたかのようだ。

確かに昔から、特に小学生時分から周りはすべき事を教わっていて、知った上で行動しているように思えてた。俺がファーストコンタクトな事もそれが何かを考える間もなく周囲が行動できる。なんだこれは。

それは親がある程度要領として子供に引き継いだ能力だと思ってる。日本は神の代わりにロールモデルを信仰しているから、早いうちにそのレールに乗せることを優先する。俗にいう没個性な教育という奴である。ひたすらに管理と指導を繰り返し自主性と創意工夫をさせない。個人への責任もなく使われる人間だけを量産する。
毎朝の通学指導では、指導者が自ら横断歩道の真中に立って車を止め、子供たちを渡らせる。つまり子供が自分で左右を見て安全を確認し横断歩道を渡るチャンスが与えられていないのだ。
そんなことだけど、そんな事の積み重ねで人は出来上がる。自分でやらなきゃお前の価値なんてないと言いたい。社会的な失敗もなく、成功体験だけをもって何をなそうとしてるんでしょうね。上手くいくほどに考える事を止め、皆で一緒にアホになる。昨今の東南アジアの体から世界第二位三位の経済国になって、ロールモデルを失ったらもうだめなのか。誰それに見習って、某国はどうだと、もうちょっと自分の頭を信頼したら良いのにね。つまるところ無いんでしょ、信じるにたる教養が。
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