人のために行った様を他人が見ると
このところ、局を問わず増えている番組がある。世界に散らばる日本人を扱ったものだ。どういう経緯でそこに流れ着いたのか、人それぞれに物語があって楽しい。秘境とは言わないが、一日で着かない場所もザラで、整ったインフラをオンタイム利用できる日本は凄いなあと、あらためて思う。映像だけ眺めていれば本当になんでそんな所?と思わずにいられない。ただ、それは自分で選んだ結果ではない事も多い。
今日なんかだと戦争の影響と言う事だった。何もかもが変わるというイメージは歴史の教科書で習う。メディアの扱いは過去の一点とその後の栄光に光を当てる。忘れてはいけないという言葉が一人歩きして、当事者に光が当たる事はそうない。現象だけを見ても実感は湧かないし、戦争は絶対しちゃいけないとかそんな幼稚な講釈は聞くに堪えない。
戦後という中を生きてきた自分にとって戦前との違いなんてわからない。もちろん戦争だって知らない。たまにこうしてテレビで体験者の話を聞いて、何も思わないはずは無い。いつもひっかかるのは行動の中の自分のスタンスの差。彼らは必ず「誰か」のために行動している。「自分」ならこうするだろうという想定で、なぜこの人はこういう行動をとった?と思うと理解が難しい。
理解が難しい事は少数の人にしか解釈されない。なぜと言う疑問を長く持ち続けられる人は限られている。教育によって答えを求める事に重きを置けばそうなって然り。歴史認識もそうあるせいで、戦争一つとっても年表の横スクロールの一イベントでしかなくなる。よく、勝者の影で敗者が生きてるなんて言うが、敗戦国と敗者を一括りにするのは違う。それは放射線と放射能を同視してしゃべるくらい雑な話の進め方をしていると思わざるを得ない。
戦争によって異国の果てに暮らし、どういう人生になるかは確かに外部要因ではある。しかし、そこから抜け出せない状況になる事は不確定な要素だ。かの地で出会い、帰国が最優先でなくなればそこからは戦争の外の話。高度成長は国の繁栄と人の繁栄を同時に実現したようで、実際は個人の繁栄とほとんど関係ない。バブルも同様、国のトレンドは個人のトレンドと必ずしも一致しない。当たり前だ。日経が伸びても自分の保有銘柄だけが下がるなんて日常である。
生き方とか人生とか、軽々しくどうあるこうある言ってるのは自分一人の保身でいっぱいの証拠。一度何か背負ってしまえば道の選択肢は減り、自然捨てるべきものがはっきりわかる。ある時点に持てる持ち物の数は決まっているのだ。お子様ランチプレートにフレンチのフルコースは納まらないわけである。
世界を共有していても物語は共有しない。同じ道でも意味は異なって辿り着く場所も一様ではない。それでいて、未だ国外に住む日本人にどこか驚くくらい、俺の中身は外海に届いていないのである。