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アウトドアを好む6つの理由


12才の夏にパソコンを手に入れた。以来15年間ほぼ毎日と言っていいくらい液晶を眺めている。回線も、従量制のISDNから定額制のADSLに変わった2002年以降、ネットに繋がりっぱなし。決してこれがいけないと、そう思ってアウトドアを嗜好する訳じゃない。

結論から言えば
・自然が好き
・頭が冴える
・体が疲れる
・繋がりが無くなる
・淀みが無くなる
・面倒が増える
ということになる、まあ…順に解説するのもつまらないのでサンプルを出してみる。

昨日ちょうど釣りに行ってた。
「春はシーバス、ようよう暑くなりゆく海際」
ってな感じで、ただ釣果のほどはサッパリだった。じゃあ、行った意味無かったかというとそうでもない。漁師じゃないから、釣れなくて困る事も無い。釣れれば嬉しいのは当然だけど、絶対釣れるとわかってるなら、釣れたことの嬉しさは薄れる。ドアツードアでポイントにいける訳も無く、車で近くに行って歩きながら釣れそうな場所を探す。食うにしろリリースするにしろ、生き物同士に「ああすればこうなる」は無いのである。

人に都合のいいサロンで楽しめるのは成熟度の低さだと思っている。釣りに関して言えば釣り堀がそう。アクセスは悪くなく、金を払えば道具はあるしお腹を減らした魚もいる。自分で道具を買って、ルアーやエサや仕掛けを選んで云々は面倒だと言えば嘘ではない。釣れましただの、食べてますとツイートする手間はそういう面で置き換わるが、逆に言えばそれほどまでに非日常は遠い。陸の端っこで海を眺めても、山のてっぺんで地上を見下ろしても、液晶に映る電波の状況はいつもの日常なのだ。

山登りは疲れる。しかし、日頃使われていない筋肉が刺激され、細胞が目を覚ます。代謝が活性し、深遠に溜まっていた澱が排出される。長期的な疲労の軽減には適度な短期的疲労が欠かせないのである。疲れてる中では自然行動に優先順位が出来る。8合目の休憩で合間に顔本のニュースフィードを開く気分にはならない。

一度癖付くと、人はなかなかそれを取り去る事が難しい。無意識のうちにでもその癖を制限すれば、やらなくていいかもしれないという意識が生まれる。ただ外で遊べばアウトドアか。それは違う。おれの中では少なくとも上で挙げた六つがなければアウトドア感が薄い。アウトドアの訳がどうというより、言葉そのものの定義。

インがいいアウトがいいはどうでもいい。偏ってしまえばどっちも良くない。全てを一息に把握し辛いからといって、細分・比較して優劣を決めるのはセンスがない。今はアウトドアについて書いてみたけど、同じくインドアについてだって書けると思う。

神経学かなにかでは、意識は自分とそれ以外を分けるものと言われるが、環境に関しても似たような認識をおれはしている。自分とそれ以外。内とそれ以外。本当ならインやアウトの境界が無いのがいいのである。
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