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盆暮の墓

年末だからなのかなんなのか、今日は父親の墓に行ってきた。

年に二三回は墓に参る。しかし、なぜ夏の最中の盆や寒風吹きすさぶ暮れに行くのかわからない。習慣としての話というより、なぜ仏教的にそのタイミングで参らせるのか。

俺は、ひとえにハードルだと思っている。

その気候の中でも参るだけのモチベーションを持ってるのか、と問われているような。おそらくそんなのは本意でも何でも無いだろうが、調べてないので何とも言えない。

定例の如く花を供え、水で墓石を流す。線香が風でつきにくいという件を何年もやっている。なんなんだこれは。

うちは代々奈良を離れていないので車で数十分も走ればすぐ墓がある。天皇家と比べるのはおかしいが、流石にあれだけ彼方此方に歴代移動されると子孫の墓参りも楽じゃないだろうなあなんて思う。まあ、それだけマメに行くこと自体このご時世には少ないだろうが、悪いことではない気もしている。

俺の場合だと割に早く(16才当時)に父親が他界したので、墓に入る順番も少しずれた観がある。別に順通り行けってわけはないけど、ファミリーで入る墓のキャパに違和感を覚える。あくまで俺の基準だと1夫婦/墓ってイメージなのよね。そうなると親の実家に近い墓が最寄り(?)の墓という現象が起きる。あの、意味わからなくてもいいんだけど、そういうのちょっと微妙な感じがするんだなぁ。土着とまでいかないものの。

便利とはいえクラウドの墓で済まそうというのを不義理と思う人間ではあるから、場所に依存することを理由にこだわりたいって程でもないっちゃない。なんというか、俺の血統における栞やフラグ的な役割になってるんだよね。たとえ記憶で十分でも。

心ってそう信用してないから、というと変だけど、実体にしか湧かないフィーリングって心より遥かに重要。想定なんか眼前にある現実の前では蚊ほどの役にも立たない。そこに誰もいないからこそ、墓こそがいないという事実のレゾンデートルにもなっている。仮に端末で墓を確認したら、死までバーチャルで処理しているかのようになってしまう。

なぜ厳しい気候の中行くのかもそうだし、人の移動で墓が遠くにあることも、やはりそういったものを受け止めるハードルなのかもしれない。その意味では十年経った今でもイマイチ俺には実感のないものである可能性が高い。
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