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無意識の中の意識か

それとも意識の中に無意識があるのか。

言葉の成り立ちから言えば意識を否定することで無意識ができる訳だけど、意識を認識するのが先か無意識を認識するのが先か、どっちかはよくわからない。ただ、英語も同様ハッピーに否定のアンをつけてアンハッピーにするあたり、言葉にする時はプラスの方がまずある。まあ、死に関しては不生としないところが、何か絶対的な意味を感じるね。

ところで、俺は記憶力が良い方なのだが自分の発言や行動に関してはあまり鮮明でない部分が多い。それこそ小さい時に何になりたかったとか、まるで言った覚えが無いようなことさえある。親や古い文集で見聞きして驚くよね、あまりの変わら無さに。

幼稚園とか、それくらいの時なんて正味確固とした考えも無い分(俺の場合)適当に言うことがほとんどだと推測するものの、おおよそ今でも意識的に言わずには出ない答えが含まれている。

以前読んだ本に、寝ている間は無意識だから生きてる間でも意識があるのは2/3、残り1/3は知らないみたいな事が書いてあった。実際、酒に酔って反射的に話をしてるときでも意識下の自分と何が変わってる訳でもない。ともすれば、認識の如何に依らず、意識も無意識も結果やってることは何も変わってないんじゃないかと思えてくる。

逆に、意識下と無意識下で行動にズレが生じると、世間ではいわゆる病気として扱われたりするんじゃなかろうか。その辺は誰か自分以外の人に突っ込まれないとわからないけど、少なくとも今のところ俺は一度も突っ込まれてない。

微妙なのが、意識を強く思っても無意識に引っ張られることがままあるところ。特に運転や歌ってる時なんかは意識的ではなくほぼ無意識的に依る。心拍や呼吸も意識するほどに都合が悪い。対称性の破れとは違うけど、意識と無意識のスープからは一次的に意識が選ばれるような設計がされている気がする。かの、鳩胸/猫背のように。

とある哲学者いわく、思ったから俺がいる、だがしかし…。そういう、螺旋の中で生きている。ああではないか、こうではないか、留まらず流れる中で人は。

ああ、すばらしきこの世界。いや、一体誰の台詞だったか
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