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世間と言う型


丸だったり、あるいは四角だったり、決まった形は無いのだけれど、あるコミュニティにおいて存在する型。それはわかりやすい概念でいえばパズルのピースの様でもあり、少しアカデミックにいえばセルフシミラー的な踏み絵である。

幼い時分は型も何も無いが、出来上がった社会では概ね通る道が限定されていることもあり、そこを通らないという選択肢には不便や面倒がついて回る。例えば通る道が六角形なら六角形に形を変え、三角形なら三角形に形を変える。そうやって、あたかも自分で型を決めたかのように錯覚する反面、ある瞬間からその道が具合悪くなると次はどういう形になればいいのかと悩んでしまう。

そもそもでいえば、形作る必要も無い所をどういう形になればなんてのは無意味だし、考えても答えは出無い。しかし残念なことに、とあるコミュニティでは同調圧力たるものが存在し、型が無いことを否定する。ルールがあることを前提に生きてきたことで、自ずからルールを定義することが出来ず、アウトローなものに比較優位を感じている。仮にそうは無い人でも結果的に仕方無しの選択をのみ込むのが関の山。

社会の一端はその全体を示している、とはまさに上でいった自己相似なるものなのだが、問題なくスルーするには結構深刻な問題だと俺は思っている。元々は統計的な話を扱う都合できた理論だと思うけど、ある種の理想状態で扱うものと違って、現実に適応できてしまう事象は合理的に見えて実はとても危険なことである。

ヘッジも金融から派生して人々も馴染みが出てきたものの、それを遍く実行出来ていることはそうない。ウィン◯ウズにもれなく発生するウィルスがある時は林檎やペンギンが生きてくるし、iOSにもれなく感染するウィルスがあればAndroidが生き残る。しかし、言いたいのはシェアの問題がどこにフォーカスしてるかで、今の例で重要なのは世間の窓+iOS派と林檎+Android派の数である。単に端末間を別OSにすればヘッジかというとそうでもない。勿論そこまでガジェットに傾心してねえわってなれば別だけど。

まあなんにしても、一度あると思った概念は経験や知識でいきなり払拭は出来ないもの。思い切って壊すか壊されるかしてみるのも一興だろう。プラス◯イナスの岩◯的に。

※画像は珍しく家の前に止まった緊急車両
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