森都交替
今日は隣の町にある山に登ってきた。葛城山といいます。標高は960m無いくらいだけど、駐車場が300mほど登ったところにあるので、実質は650mの軽い登山なわけである。これくらいなら散歩のついでといっても過言ではない。
とはいえ前に登ったのは何時のことだったろうか。日頃部屋の窓からその姿を目にしていても、どんな道を歩いたかや途中の景色などは思い出すことが出来ない。登山道を歩き始めてすぐ、滝を拝むことになるけれど、その存在も初見ばりの勢いだった。
「滝なんかあったんだ」
知ってたつもりでも間が空けばこんなもの。人の記憶なんてアテにならない。
平日な上、八時前という時間もあってか、すれ違った人は老夫婦4組ほどだ。目標点2、いくつでゴールなのかわからない看板の数字を追いかけながら、言ってしまえば身も蓋もないが、代わり映えしない景色を一時間半ほど歩くことになる。
目標点4。汗が止まらない。筋肉に溜まる乳酸や心肺器への負荷以上にそっちがしんどい。散歩のついでと言ったが、服装は考えないといけない。シティな格好で山に踏み入ると上手く動きがとれない。ズボンが足に張り付いて、無駄にエネルギーを消費する。町の生活でズボンが引っ掛かる不都合なんて、些細な障害であるけど、山はその面倒さが増幅する。
自然は人の都合良くは当然出来ていない。そして現代人は社会システムの瑕疵に文句を言うことが少なくない。しかし、こうして自然の存在に触れると、人は世界がそういうもので出来ていると受け入れる。なまじ戦後の特異な価値観が人類に整合性という魔物を与えてしまった。そのおかげで、都市生活だけは自然と切り離した環境だと誤認するに至ったと思う。
登頂という達成感も確かに気持ちがよく、殊更人生に例えたりする講釈が一部流行ってはいる。それはあくまでスポーツ的な要素の解釈で、まあナシではない。ただ俺はそういう事を考えて登山はしない。そこに山があって、十何年登りもしなかったのに思い立つ衝動は他に思うところがあってだ。ただ、こういったことは体を動かす中で鮮明になるところがあって、籠りながらウンウンやっても結論には至らない。
うだうだ講釈はたれても、結局登りたいと思うから登る。これが根底にあり、楽しいと思うならそれで十分だし、その他のことはついででいい。けれど、繋がろう繋がろうとする近年の傾向に反し、繋がりから解放され、内を見る機会を得る数少ない機会がそこにある。何かを思わずにいられる方が難しい。
俺だけだろうかね、そんなめんどくさいこと考えるのは。
ああ、ちなみに山頂も電波がばっちり入るから全然下界と繋がるんですけども…