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私観という客観

堕落論・日本文化私観 他二十二篇 (岩波文庫)
坂口 安吾
岩波書店
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書く方向の違和感は、小さい時に右手のチョップに使う面を黒くした時にとても強く感じた。ほんとに、どうして日本語は右から書き出していたのだろう。

文化における時代の私観は考える価値がある。大正時代から見る江戸、平成から見る大正。おれはギリギリ昭和生まれなのだけれど、昭和に関する記憶なんてモノは親父のブルーバードくらいしか無い。平成に入ってからはビスタやコロナと、別に大した車ではないけれど記憶の多くは車にハッシュされている。ナンバーだって覚えている。まあ、そんな事はどうでもいい。

自分が持っている日本の記憶と歴史で習う日本の姿はダブるところが無い。東西ドイツやソ連は幼稚園の頃、部屋に張られていた地図で見た事はあるけれど、歴史の授業で聞いた記憶はあまり無い。最新と言うか、日本史の末にあったのはww2、それ以降は微妙。そんな中でおれが昭和を語るのは不可能に近い。せいぜい親から聞いた情報を元に考えるくらいだ。そして残念な事に、歴史で習った遠い昔の事よりも近い人に聞く近い時代には驚くほど魅力を感じた事が無い。

著者の生きた時代は大きな世界大戦が二回も起きている。おれの今の感覚からすればグローバルってこういう事だろうと思う。ガラパゴスだなんだといわれようが、多様性なんてものはそういった争いが起きる確率も上がるということだ。


ブラックスワンの話のように、千年に一度が個々数年に何回起こるんだといった事がある。歴史は繰り返さず、ベルカーブの裾野で起こるような事も頻繁。

一体何のために歴史を学び、まして未来に活かそうなどと適当な事がいえたのか。確かに、そう言い切ってしまいたくなるのも人間の設計といえるかもしれない。俗にいう思考停止。ただ、いつの時代も、人はどう考えどう生きたかが歴史なのである。法則によって起こりうるものはそもそも歴史と言っていいかわからない。

むしろそんなつまらないものなら、これから先に何を思えばいいのか
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