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24時間がいっぱい

2011年から2012年になって、別に日々の何が変わる訳ではないのだけれど、年を越えるという習慣は体や心に体内時計のような一定のリズムを刻んでいるのかもしれない。

体内時計は太陽の光を受けて反応し、人が生きてるうちにずれる固有時を補正している。それと同じように人が暦を見て反応し、一年単位で自分が経験した習慣に寄せていくような、そんな様を正月に感じる今日この頃。

一応、家にいると雑煮やおせち(高野豆腐と黒豆しか食べません)が出る。いらないなあと思いながら、もちはおいしいしこの時期くらいしか食べないので別に良いかとも思う。かといってこの時期にしかないものなんて、この文明社会に多くなく、わざわざ世間と足並み揃えるなんて意味が分からない。

初詣に関しても誘われたから行ったくらいのもの、自主的に行こうなんて考えたのは前世紀頃が最後だった。

いつからか正月の静けさは無く、アホみたいに道をつまらせ、混んだ空間でセール名目価格の商品を買う。実に素晴らしい。そうやってどんどん経済を回せばいい。大量生産大量消費、使っては捨て使っては捨て。滑車を回るハム◯郎みたいでいとおかし。

日常は時間が無いといいつつ、いざ休みに外出れば時間を浪費する。こういう人って時間を浪費するのが常だから、何時も時間が無い事態を生む。年という単位で生活をみてると一日にかける気の大きさも1/365になってよくない。

昔、その日暮らし的なスタイルを批判したような話があったように、長期的な視野も大切なのはわかる。しかしだね、その日一日一生懸命っていうのも同じくらい大事。自分の生きている間中成長していた頃は日々の上下より大局的なトレンドが重視されててもおかしくはない。ただ、今の現状は本ブログでも書評として触れた、下山の時期である。流石に明日死ぬとはいわないが、いつどうなるかは去年の如し。

意識だって毎日途切れてる訳だし、毎日が続いてるなんてどうしてわかったものか。過去も未来も関係ない。認識する今こそが全てである。

さて無意識の世界へ
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