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一神教とか多神教とか

なにより神を信じていない身として、それを語るに値しないと思う一方、だからこそ第三者目線で中立な解を得れるのではないかとも思っている。




一神教と言うと、唯一絶対の神に見放されれば地獄へまっしぐらなわけだけれど、多神教は捨てる神拾う神と言ってヘッジが効いている。多くの争いは一神教によるものであると有史以来周知である。だからと言って多神教がいいかと、そんな単純ではない。最近流行のギリシアは財政破綻繋がり(?)の日本と同じく多神教を生んでいる。まあ草木に宿るという八百万に比べ人間本位の差はあるにしても。

従って、ある意味で経済とかスポーツの指標の強さは多くよりも一つのものを信じている方が力を発揮するのかもしれない。日本でも弓道では二本目があるからと思って放つ矢は思ったように飛ばないらしい。

一神教多神教は一信であり多信かつ他信と言葉で遊んでるようだけど、自分以外への依存度が高い。ある意味で自分の脳にその存在を確信しているわけだから、自分を信じているとも言える。しかし、人は人の社会で生きて、いや生かされている訳だからいざ頼るなら目の前にいる人が良いとは思わないものなのだろうか。

蓋し、立場が上になればなるほど頼るものがなくなってくるという事をよく聞く。だから、その辺のものより現実離れしたものによりどころを求めてしまう事もわからなくない。占いとか風水とか、ああいうのが産業としてあるのも人の性故だろう。
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