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比較について

比較は、その行為によって対象がより明らかになる。
それはまるで太陽に照らされる月のように。

物心がついたときから、比較を通して自分の事を知ったと言っても過言ではない。背の大きさや富のレベル、学の広さや世界の距離までなんでも。



一時、また今でも、比べる事の愚かさやオンリーワンを薦める風潮などローカルには存在する訳だけれど、オープンになって恥ずかしいような生き様なんだろうか。というより、比較はした側が勝手に意識しているだけで、された側は無関心に近い。上と比べて劣等感を抱いたり、下と比べて優越感に浸ったり、行為そのものでわかる事実以上に良い悪いまで評価する。

比べるというのはとても定量的なものだ。同じスケール/単位で無ければ意味をなさない。

例えばGDP。世の中における経済という観点で重要視されるインデックス。比べれば大きい日本のGDP、世界でも有数だ。しかしそれが良い事かというと昔ほどその数字の大きさなりの実感を持っていないところが現実だ。確かにインフラの快適さはあるし、生きる上で必要十分な環境も整っている。でもどうしてだろう、そんな国で自らの命を絶つ人が止まないのは。指標が人を殺すとは言わないが、同質の比較を繰り返すと、その人の中ではその一つの世界だけが全部になってしまう。要するに、日本なら日本、イスラムならイスラム、地球なら地球と環境をくくっているという事だ。宇宙飛行士が宇宙へ行くときは宇宙服という地球環境を持っていき、それが無ければ死んでしまう。

体で起こることが心で起こっても不思議ではない。

さて、比較を定量といったけれど、逆に定性ではどうなるか。さしあたり定性の枠も曖昧なものの、明確でないだけに明らかさの欠如という理由でもって比較出来ないといいたいところ。

かわいい。

俺は滅多に口にしないような気がするが、言ってる自分が気持ち悪いので他のボキャブラリーで濁している。すごいいいよ、とか。まあエロいカメラマンのような言いぶりが寧ろ変態さを露見させている気がしなくもない。

で、それはいいとして、かわいいなんてのは何をどう比較すると誰でもが再現性を持った基準になるか、俺にはわからない。強いて言えば個々に存在する絶対的な琴線に触れるか触れないかというデルタ関数的また、フェルミ粒子的な存在かもしれない。実際の状況で説明するなら、997若しくはケイマンに乗ったメガネ女子が3→2のシフトダウンで右折するキュン死チュエーション、なんて言ってもそれをかわいいというカテゴリの比較対象に出来る人間が相当数いない。

家族という点においてもどうだろう、一緒にいるのが幸せだと思う人もいれば離れていた方が幸せだと思う人もいる。

よく平行線を辿る価値観もその定性の一部だと言える。だから比較以前にすれ違う。
人間五十年、化天の内をくらぶれば夢幻の如くなり

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