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興味心身

器用とはyahoo辞書によるとこういう意味だそうだ。

最近の俺は脳と体の関係が気になっている。急にという訳ではないが、このところのそれについて考えている時間が長いという事実がある。養老さんの本を何冊かまとめて読んだからと言うのもあるのだけれど、その中で体あっての意識だというような点に引っ掛かったのである。

引っ掛かるって言うのは違和感からではなく、受け入れる琴線に引っ掛かったという表現があってる。

そこで、器用と不器用について思ったことがある。不器用は純粋に肉体の性能で脳の命令形の問題ではないのかなあと。従って生きることが不器用な奴は手先を器用にしてみれば何かと要領よくなるはずだ。体という器が意識の依り代だと思えば器用という漢字もなぜかとても意味深に見える。
一時期ペンは知っているなどと言う訳のわからない説が地域的に発生していたのだけれど、実は正しいかもと思っている。写経やタイピングのように指先と意識のミックスがなせる技も、現象として記述するなら”指先が動いたのを脳が認識している”と言ってどこも不思議ではない。semiconscious って日本語にするとあんまり認識してないみたいなニュアンスになるのか、どうなのかよくわからんが意識半ばという意味で、自分の中では単語としてはまってる。

今までの俺なら脳の機能が手先の器用さを包含していると言ったイメージだっただろうが、今はどっちかと言うと逆な気がしている。勿論どっちが優位とかという一面的で唯物論的な事を言うつもりは無い。ただ、脳至上的な論から離れてる方が今は自然なのだ。

そもそも、物心というように、意識すら後手で認識している。なにせいつから生きているかは外部からの情報でのみ知ることが出来る。かろうじて俺は赤ちゃんの時の記憶があるもののかなり断片的でその上証明のしようも無い。それを意識とするにしろしないにしろ、体は既にそこにあった。いつの間にか意識が先だと錯覚してくるあたり脳はかなり出しゃばりで図々しい。

体が言うことを利かないというのもそれで納得出来る。ハナから脳にアドバンテージなどないからだ。意識すればするほどキレの悪い体の振舞いしかしない。無意識の素晴らしさを実証するデータも最近はちらほら出ている。

まだ何もかもが仮説。そしてこれからも。
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