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不完全な人間の完全

俺はだいたいのことが不完全で、他人に対しても完全さを求めたりはしない。しかし、自分が不完全であることを半ば理解しきれていない人の中に、他人へ完全さを求める種類が存在している。人間が相手に対し意識的に不完全さを求めることはないにしても、執拗に欲しがる完全とは何を指しているのだろうか。

関西ではMBSで月一回ごぶごぶという番組をやっている。浜田雅功さんと東のりが街やいろんなところをぷらぷらする番組である。そのごぶごぶで浜ちゃんが行き交うスーツの人々を見て言った。
どいつもこいつも同じかっこばっかりして、目立とうという根性はないのか
そう、スーツばかりのサラリーマンにツッコミどころを感じたのである。確かに、ずっと芸人を一線でやってる人間が平均的な世の中の社会人と近い慣例を理解できるかといえばそうではないだろう。ただ、コンサル的なことを言えば何らかの一流であれば他の業種にでも転用できる何かを持っているはずだ。芸人だってプロフェッショナルとして仕事をしているし、なおかつダウンタウンといえば業界でのクラスも高いので単なるツッコミとして流すにはいささか惜しいものだといえる。

平均的なサラリーマンの読むような自己啓発本の多くは、他より一歩抜き出るためのノウハウが並べられることが多い。さはありながら、日本人の一番めんどくさいところは横並びでバランスさせながらもちょっと人より抜きん出たいと思うところだろう。

しかしまあ、なんだ。凡人は凡人らしく平坦であればいいとも俺自身は考えている。空の高くは地面を基準にしてあるように、海の深くは地面を基準にしてあるように、天上の神や奈落の悪魔もどこか基準が必要なのだ。その役は常識をまとった、いや、まとわされた平民に負ってもらおう。

誰も疑わない、それが標準、あたりまえのこと。こういったことを長年の常識や通例と言って踏襲してるだけの人なら、その上に何が加わったところで鳴かず飛ばずなのは自明。賢人曰く和して同ぜず。つまるところは交換可能なヒエラルキーにソートされる。

人は標準が安定点である様に認識している傾向があるし、客観的というマジョリティをバックに、又盾にしてその振舞いを決めている。それは欲求に対してもそうだし、面倒な(だと俺は思っている)怒るという行為にまで適応させる。

怒り方に客観性は要らない。それはおれも経験的に正しいと思っている。小さいときから怒られることが褒められることよりも遥かに多かった人間として、とても受け入れやすい事実だ。

「普通はそうじゃないの?」「常識的にそうでしょ?」

誰の普通で誰の常識かなんて知ったことではないし、”?”で同意を求める意味が分からない。お前の意見はどこにあるって逆に聞きたい気分になるし、人類代表の意見をお前が言わないといけない理由はどこにあるのか。

何も知らない、ざっくり学のない人間はこれだから手に負えない。始めから絡む必要がないと楽なんだけどねえ。。。
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