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失敗から学ぶと言うけれど

言葉は本当にその通りだ。人は不完全であるし、それ故失敗もする。だから失敗の度に学習するべきなのである。しかし、その言葉もかなりの確率で不完全なわけで、漏れずに実行されることは無い。

原発のようにただ危険という程度の認識しかしてないようなものは特に。
なんといっても人が多く死んだ前例だけが頭に残り、その枠を”想定”している。二十年の後退の間高度成長をしがみ、挙句この世にしがみカスばかり残した。

惰性

学習の余地がない。原発をポンポン建てられるほど土地も人間も許容が無い。いろんな意味で日本は狭過ぎた。文句は言い出すときりがないけれど、人は知らないことに対しては無いものと同じように振る舞い、そして、知ってることに対して目一杯話す。この最たる結果が今の原発の姿なのだろう。

なまじものづくりなんて言ったもんだからなんでも作れる気になってるのだろうけど、人は今まで何一つ作った歴史が無い。農作物だって機械だって、何だったら子どもだって作ってはいない。手続きを知っただけだ。その手続きに関しても確かに、機械は米やなんかに比べて作る時間が短いものも多い。米は年に一回しか作ってないから進歩の速度のそれなりだと考えておかしくない。だからこそ人工造物に”絶対”とか求めてしまう。

米のように年に一回しか作らないものを例えばミスで上手く作れなくても管理不行き届きだとか罵倒されることはまあ無いだろう。食えないから保証しろとか、土下座しろとかまあ言われない。

それと比べてもという部分もなくはない。ただ、表面化したから文句を言う、影を潜めてるから黙ってるという姿勢にはインテリジェンスの低さしか感じない。機嫌がいい時にマンセーといってるようなのはもとより至らないと勝海舟も言っていた。

不勉強は後世で恥をかく

誰が今魂を抜かれるのが嫌でカメラを避けるのだろうか。誰が今蒸気機関を狸に化かされていると思うのか。正義云々の話をする前に無知であるという悪を払ってから議論の舞台に登るべき。たとえ完全な知識を身につけれずとも日々学ぶことを思い出すだけ幾分マシなはず。


緑の深まる季節と、きたる夏に向けた何とも涼しげな葛餅。
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