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心配とは心を配ると書くわけで

心の病を抱える社員

なんだかこういう話を聞くと繊細な人は可哀想だなあとか、軽々しくも思ってしまうおれがいる。

生まれてからあまり心配なく育ってしまったもんで、逆に心配されて育ってしまって
どうもいつも誰かに助けてもらうことが多くって



なんなんだろ、おれはそんなに危うい感じに映っているのかなぁ?
自分ではよくわからん

なにより言い方は他にして、必要以上に手を貸してくれるから自分でやる手間が最小限で済んでいるのはとってもラッキーなんだな。しかも、時たまおれが何か気を回すと随分意外そうに、まるでサプライズでもしたかのようなリアクションをされるので、日頃どう映ってんのか疑問だったりする。もう十何年の付き合いになるツレにコンビニでお茶おごったら「え、まじで+△+?」って声を大にして言われたしね。

でまあまあそう受け取ってばかりだと、いつかは返さないかんなあ言うてますけどね。その辺の意識レベルが恐らく心配とかへの感性に引っ掛かってくるように思っている今日この頃。つまりは、心を配るという人への意識が濃くならないと、もとより心配という行為に移行しないのではないかと。

ただ、相手の行為(御好意?)に利他的な物があろうとなかろうと、受け取る側のおれはそれを判断する術もないわけで、それがおれにおける利己的な要素であっても悪いことであるとは限らない。本当に嫌な事は進んでやろうなんて思わないからね、そういう意味で提供する側には対象となる物事に関して自信があるのは言うまでもない。

本当ならそれぞれの作業をクラスター化すれば嫌な事まで自分でやる必要がなく、それぞれの得意分野を専門に作業単位で処理していけば言う事ない。
発想で言えばコンテナにもの詰めていくようなイメージだろう、中身がなんであれコンテナはコンテナという一つのクラスターが出来上がるってことで。

そういえばコンテナのこんな本。

コンテナ物語―世界を変えたのは「箱」の発明だった
マルク・レビンソン
日経BP社
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発想/発送が単純だけにそこに渦巻く事情は複雑であると言う。これも箱にいれりゃあええってもんでもないみたいで、作業の効率化はそれに伴い人も効率化されるからやはり心を配らないといけない。

そうやって気を回してもらってるうちが花なのかねえ。

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