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生きた心地と存在する体

おもしろい本だった。感想としては言葉足らずこの上ない。
養老さんの本は遡るほど読みにくい気がしているのだけれど、逆に新しくなるにつれ読みやすくなっているようなそうでもないような。なにより年寄くささがないのがいい。





あえて語るほどでもないものの虫取りという行動に見られる様に、その頭は非常に若々しい。とても70越えたじいさんとは思えない。どこがそう感じるかと言うと、展開する理論がそこらのお偉方に紛れてないところ、そして発言において損をするかもしれないという一般的常識人のような尻込みが全くないところである。

蓋し日本はこういう人のキレのいい言葉で弄ぶには余りに突っ込みどころの多い国である。ただ、それをやろうと思うと人並み以上のインテリジェンスがなければ出来ない。本のテーマこそ大づかみではあるが、それにも増して言及する話題は学を感じずにいられない。惜しまれるのはおれの生きてきた環境では自らの精進不足も相俟って、あまり、いやほとんど出会わなかった人種だということ。

意識はなぜ生じるか、曲がりなりに大学で脳の研究の一端に触れたものとして疑問の的だった。それに半分くらいは答えて、、、応えて(?)くれたかもしれない。どういうことかは本書始め養老さんの著書を読んでもらえばいいとして。まあ簡単に言えば体があるから意識があるということである。そして、科学で意識を記述しようとするとおかしくなる、つまり意識が科学をしているからという話だ。

年を重ねるにつれていろんな人を知れど、この人は他より頭一つ抜きん出てると、そう思えるのは実際に会った人ではなく本の中やネットの中あるいはテレビの中にいる人だった。近頃はツイッターなどによるコミュニケーションで幾分かは近さを実感出来る環境にはある。しかし無機質な画面とそれを補う想像力でもってしても実体には遠く及ばない。

また養老さんは田舎への参勤交代を本書のみならず各所で勧めているが、まさにそれが核心で、そこには実体がある。社会がいつもタテマエである様に
個心が世間に本当にあるくらいなら、朝から体操だの朝礼だのをする会社があるはずがない
要は肩書きが同じであれば個体差はない訳だ。これが日本の世襲のいいところ(?)だと。

個性とは個体のことで個心ではないそうだ。確かに、意識が体から生じることを思えばパーソナリティを持ったのはマインドの方ではなくボディの方である。だから氏はものから考えるに至ったらしい。そう考えれば不完全な人の心理に乱れることもない。

西洋では哲学の学部がない大学は総合大学では無いとまで言われるそうだが、日本ではそこまでのことは無いどころか哲学の地位も微妙である。それ故にいつも落としどころが定まらない。フランスは小さい頃から思想についてとかちゃんと勉強するみたいだし、その辺は見習った方がいいかもしれないね。

白洲次郎もかつて言っていた「プリンシプルの無い日本」それは言葉通りであり言葉以上である。プリンシプルをもっていないし、そもそもプリンシプルに対応した言葉も厳密には無い。orderという単語も日本語では完全に対応する言葉が無いと本書にある。なぜ無いかは以上のような文化背景の所為である。

頭のいい人はなにを考えているのかよくわからないという人がいるが、それはあんたが馬鹿だからに決まっている。わからないんじゃなくてわかろうとしない。それは天才からしたって同じだ。馬鹿は何考えてるかわからない。
外国人は日本人は生きている気がしないと言った。流石に死んでるとは言わないけれど、おれもまわりを見ていて生きてるなと思う人間なんてそういない。何だったら自分にもそう思う時がある。本当に生きているのか。
過去と未来を思う様に時間と言う概念よろしく、生き死ににも似た匂いを感じる。単なる変化の一瞬。そこにおれがいていなくなる、ただその時の事実を悟るだけなのだ。

さて、また明日も機嫌良く過ごせることを願おうか
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