Header Ads

重ねるべき...

年数は一応、どうあっても進んでいく。
そこに生きてさえいれば、人として年を食っていく。

某企業ではその組織に属した順に先輩となる。
仕事が出来ても出来なくても、年齢が上でも下でも、入ったもん順に先輩となる。

一般企業にも一部そういうのが存在している。



例えばベテランのパートタイマーは、実質現場のフルタイマーほど、時にはそれ以上に幅を利かせている。俺はそれが悪いとは言わない。いずれそのベテランがかけてきた年数の数分の一の時間で上へいくのがフルタイマーの道であることが多いから。
では、どういうことが悪いのかというと、そのベテランが相応の位置にいかない、又はいけないことである。制度がそうさせているのか、本人の器なのかそれはどっちが悪いと言う事ではない。強いて言えばどっちも悪くない。しかし、どっちも不完全だと言える。

職人の世界では、年数を伴って技術の進歩があるといわれる。ただし年数を伴えば必ず進歩するものでもないだろう。つまり年数を経て、多くを知っただけで済まない人が遍く上に行く。必然と言えば必然だけれど。

よく職人技を見て盗む文化があろうかと。これが古来より技術はオープンソースとしてこそ発展した例だと言える。現代のめまぐるしい技術革新は使うための障壁が大きい。特許を取って囲い込まないといけないような技術は耐用年数が少ないから、オープンにする代償を気にしないといけない。

今日の朝にやっていた漆塗りの職人の言葉はそれをすべて包括するような言葉だった。


「技術は流出しても感性は流出しない」


誰しもが身につけれるインプット可能な技術でも、感性と言う触媒を挟んでのアウトプットをするものは同じではないということだろうか。
つまり、技術は身につけることが出来ても No sense, no success.ということである。
今はモノづくりと言う言葉が先行するように、人を作ることは二の次になっている。これは考え方として”つくる”と言うことの理屈に破綻を来した結果である。要するに人はなにもつくれないのである。


ところで、
昨日、ドラえもんを見ていた。時期的なものでクリスマススペシャル。前半の展開だけだとこの世は金だと言いたげだった。後半の展開はサンタにも人をプレゼントすることは出来ないと言うことだろうか。

しかし、ドラえもんも小学生ののび太のタイムラインでこそ特別な存在であり得るが、未来ではそうではない。世界に一台であれば、世界を歪めるような兵器である。みんなが持つようになるとリスクが無くなるという点で、誰でも持ってるものに価値はない。そこはやはり技術の末の姿と言える。

ドラえもんやサンタクロースは、止まらぬ欲を消化していく存在として、先進国を中心に根付いていった。今や煙突ではなく扉、それどころか電話線やファイバーでも通って来るんではないかと思えるほどに。そしてその存在は確立されている。

でも、大変だなぁ、この手の役回りは裏切らないのが普通になってるんだから。いざ裏切ったときのフィードバックったら惨々たるものである。

自分でそういう行為に出ないために、自分がドラえもんやサンタクロースのようにならないといけない。別に誰かを助けるためとか誰かに喜んでもらうとかではなく、自身の喜びや支えのために。


Powered by Blogger.